原発議論は民主主義の究極の試金石になる哲学的課題である

昨日の朝日新聞の社会面でふるさと・福島の松川浦漁港の漁師が取り上げられていた。最近明らかになった福島第一原発の放射能で汚染された水の海への流失問題に絡んで現場の漁師たちはどうしているのかという記事であった。せっかくここまで耐えてきて、試験操業も始めつつある中での、量的にも大量の汚水の垂れ流し。これではもう、漁師はやっていられないという記事であった。海の匂いから路地裏までを知る地域のことゆえ、他人事とも思えず、こうした事態を招いた東電の無責任な対応にふつふつと怒りがわいて来るのを抑えられなかった。やってはいけないことをやって、居直り、誰も責任を取らず知らん顔をするなんて言うことがまかり通れば、この国は荒廃の一途をたどるだろう。

 

ところで最近読んだ公益社団福島原発行動隊のSVCF通信8月2日号に慶応大小熊英二教授の発言が紹介されていた。「原発というものは、最悪の場合には誰かに死んでもらう命令を出さなければならないものであり、日本にはその仕組みがない、ということは指摘しておいていいことだと思います。原発を維持するなら、死ぬ可能性がある命令に従う技術集団をどこかにつくらないと、制度的および倫理的な欠陥、情緒論ではなくロジカルな意味での倫理学的な欠陥があることになります。だからマイケル・サンデルなども、福島の事故の直後に、原発議論は民主主義の究極の試金石になる哲学的課題だと述べたわけで、これは地方と東京の格差関係といった民主主義の枠内で解決が探れる問題とは少し別のことです。」

ズバリ本質を突いた鋭い指摘です。この認識のない企業に原発を動かす資格がないといっていいでしょう。