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韓国からの視察団が来た

韓国からの視察団が6月に2団体が予定されていた。しかし、残念なことに一団体は現下の日韓関係から、参加者が減って延期となった。日本にいるとわからないが、だいぶ緊張の度合いが強いようだ。韓国の朴大統領は女だから舐められてはいけないと筋張った対応をしているのかもしれない。個人的には好感が持てる。 もう一方の団体である京畿道楊平郡日本農業研修の一行は総勢29名でやってきた。ふるさと回帰への関心も高く、あちこちから質問があがった。主な質問では、いきなり地方に入って行ってうまくいくのか、地域とのトラブルはないのか、若者の田舎暮らしが増加しているようだが、子どもの教育における問題はないのか、など教育熱心なお国柄を反映した質問も寄せられた。 韓国は最も身近な隣国である。歴史的にも深い関係を結んできた国でもある。よく言われることだが、迷惑をかけた方はすぐ忘れるが、かけられた方はいつまでもよく覚えている。従軍慰安婦問題も、あったか、なかったのかを争うだけでは問題の解決にはならない。事実関係をはっきりさせるなど、歴史的な総括をしっかり行い、将来性のある関係を再構築すべきだと考える。 個人的には、韓国人は感情が激し過ぎる人も見受けられるが、フレンドリーな人も多く、仲良くやれる方々だと思うが、いかがであろうか。4年ほど前に講演で呼ばれ、かの国で話をし、夜は飲み会となったが、どうもよその国にいる感じがしなくて困ったことを思い出した。   前のブログにて紹介した、団塊世代のネットワークのNPO法人プロジェクト猪の総会での鳩山さんの講演会は、概ね参加者たちには好評であった。 最後は普天間問題が総理辞任のきっかけになったようだが、これは既得権派が寄って、集って鳩山さんを追い込んだ結果のことのようだ。まず、前提は日米関係を従来通り維持することに置いたことから始まる。鳩山総理は沖縄の負担軽減をどうすべきかを考え、県外で受けてもらうしかないと判断し、最低でも県外と発言した。これが無責任と指弾されたが、政府のトップが初めて方向性を示したことから、沖縄では鳩山さんの人気は高い。東アジア共同体構想も既得権派にとっては許されないことだが、戦後68年たってもアメリカの後ろについて歩くことだけでは何も変わらない。常時駐留なき日米安保こそ目指すべきと考えたことから東アジア共同体は出てきているようだ。2009年のトップ会談に臨んだオバマ大統領は政権が変わったのだから、そういうこともあるのではないかと理解を示してくれたとも話し、政権交代で日米関係がめちゃくちゃになったと安倍自民党は批判したが、そうした事実はなかったと語った。 逆に、安倍総理こそ、オバマ大統領に忌避されているように見受けられると現状を語った。さらに、終盤の民主党政権について、小沢問題に代表されるマスコミを含めた米・財・官・電などの既得権派の事実の粉飾による民主党たたきを行ったが、いかがなものかと語った。鳩山氏は交流会にも参加され、久しぶりの同世代であるプロジェクト猪メンバーと語り合った。メンバーの中にこれまで鳩山さんは何回、私どもの会合に参加されたかを数えている人がいて、今回がちょうど5回目ということであった。ますますのご活躍を祈念したい。

6月に想うこと

季節外れの台風が来ているようで今日は雨。梅雨に入ったはずなのに雨も降らず、降ったと思ったら台風の雨が降り、今年は天候不順である。何かが少し狂っているようだ。 前回も書いたが、山梨県のブースには順調に来訪者が訪れて、2週間足らずで40名の来訪者になろうかという状況となっている。もともと「週末は山梨にいます」というキャッチコピーで2地域居住の取り組みで成果を上げ、田舎暮らしでは八ヶ岳山麓を中心に数千名の居住者を数える地域だけにそれなりの反応は予想されたが、折からのふるさと回帰運動の盛り上がりもあって上々の滑り出しとなっている。 また、最近明らかにされたが人気の中国地方の鳥取県が2012年度で県外からの移住者が前年度比で4割増の706名に達したとのこと。中国地方では一番早くから東京と大阪のふるさと情報センターにブースを構え、積極的な移住者の確保に取り組んできたが、その成果が出たというところである。移住前の居住地は大阪が93名、東京が77名、兵庫が76名とのことである。   6月は企業の株主総会の季節でもあるが、NPOの総会の季節でもある。古くは1960年の安保闘争も6月に岸総理(安倍総理の御祖父)打倒と学生や労働者など数十万人が全国から集まり、幾重にも国会を取り囲んだこともあった。こうしたことから、6月の声を聴くと、とりわけ思うことがあり若き日の頃の様々なことを考える。 今週末の15日には20年前に立ち上げたNPO法人プロジェクト猪の総会が予定されている。このNPOは団塊世代のネットワークで私が代表である。今年の記念講演は団塊世代の政治家の代表でもある鳩山由紀夫元総理が「権力の中枢でみたこと」をテーマに祖直な話をしていただくことになっている。 次週の21日はふるさと回帰支援センターの総会。1年間の事業報告とこれから1年の事業計画が提案される。3・11をきっかけに大きく盛り上がってきたふるさと回帰運動の在り方をめぐって活発な意見交換をできることを期待したい。   さらに6月は紫陽花の季節。雨に打たれた紫陽花は、それはそれで風情のある花で好きな花の一つである。 一句  「紫陽花に 心奪われ 雨の中」

ふらりと薫風に吹かれて旅に出よう

関東地方も今日、梅雨に入ったとのこと。例年より若干早いような気がします。桜も今年は早かったようで、全体が前倒しという感じがします。天候の不順などなければいいのですが・・・。2011年の東日本大震災以降は、天変地異がどうしても心をよぎるようになっています。少しでも例年と違うとまた何かが起こるのではないかと思い、自然と無事を祈るような気分になってしまうのは自分だけでないのではないでしょうか。 過日、新聞を読んでいたら、細川元総理が「緑の長城プロジェクト」の広告に載っていました。ふるさと回帰支援センターの顧問の菅原文太さんも先の「いのちの党」の設立総会でもこの運動への共鳴と参加を表明していましたが、大分広がってきた感じを持ちました。当然、漁師の子どもである私も、被災県で検討されている「緑の長城」ならぬ10mをこえるコンクリートの堤防には反対です。人は有史以来、水辺に住んできました。それを1000年に一度ともいわれる今回の津波に懲りて10mを超える堤防を築き、自然に逆らって暮らすなど考えられません。漁師は風を読み、潮のにおいを嗅ぎ、海の色を見て漁を測るのです。是非、福島県民総体での海岸線全体での「緑の長城」建設運動に参加し、自然との共生を軸にした暮らしをしたいものです。 数日前に、久しぶりに福島県にお邪魔しました。県内の自治体職員を対象にした政策研究会での講演を要請されたことによるものです。テーマは「ふくしまのイメージアップにむけて」というものでした。 私はこのテーマに対し、「誇りの持てるふくしまの再構築に向けて」と題して話しました。 それは、県民一人ひとりが誇りの持てるふくしまを創ることがすなわち福島県のイメージアップにつながるのではないかと思ったからです。未曽有の災難ともいうべき福島第一原子力発電所の事故、100%安全と言われて作られた原発。それが事故を起すなどということはまさに寝耳に水のようなもので、その驚きとショックは今も癒えていない。 今後、何十年もかけて、世代を超えてふくしまの復興を勝ち取るためには何よりも心が折れないようにして、あの140年前の戊申の役での敗北から立ち上がった確固不抜の精神に学びながら、もう一度立ち上がり、生きていくしかないと思うからです。 地味な取り組みではありますが、自治体職員のレベルでも風評被害をはじめとした様々な困難に対して克服に向けたこうした取り組みが行われていることに心を強くしました。 今年も田植えに季節となり、薫風が早苗を揺らしています。東北はいまが一番いい季節です。ふらりと旅に出かけませんか?

桜舞う入学式を想う

4月は入学式の季節だ。 山梨県早川町は南アルプスの山麓に位置する町だが、この日本一人口の少ない町の小学校で2年ぶりに入学式があったという。新入生の3名はいずれも首都圏からの移住者の子どもたちだ。早川町は給食費など学校に関わる費用の無償化を打ち出すなど独自の制度で移住者を呼び込む施策を進めている。 さらに、この小学校では山村留学にも積極的で町民有志による応援団も組織され、昨年度は県外から5世帯が移り住んでいる。粘り強い取り組みがやっと成果を上げたといっていいだろう。さらに、町内にある岩殿神社の春の例大祭では6年ぶりに子どもみこしも復活したとのことである。こうしたところにもふるさと回帰運動の成果が表れている。   4月に入って、この間の問い合わせ・来訪の件数も明らかになっている。2月は問い合わせ・来訪数が700件を超え、3月も520件と多かった。2012年度の来場者数も昨年比183%増と急増している。 事務所を東銀座から有楽町駅前に移転したことが大きかったことと、ふるさと回帰運動が社会的に定着したことによるものと思われる。加えて、移住を具体的に検討し始めた方が増えことによるものと言える。 また、各会員自治体からセミナーを開催したいという希望も多くなり、ブースを開設している自治体に限って日曜日の開催を決意した。   【お知らせ】 1月9日のブログで紹介した宮崎県高原(たかはる)町の将来人口1万人を目指した「1万人の笑顔あふれるたかはる復活創造事業」が本年度から始まり、「高原町移住支援金交付事業」の詳細が寄せられた。詳しくは同町の定住推進室(0984-42-2115)へ問い合わせてください。   私の入学式は59年前だ。入学した相馬市中村第二小学校には桜の木が多かったような記憶がある。その桜吹雪の中、真新しい帽子をかぶり入学式に臨んだことを思い出す。忘れていたが昨夜、弟から電話があった。明日10日は母の命日で59回忌だという。母は小学校に入学して一週間で亡くなった。そうしたこともあって、入学式には叔母が参加してくれた。その思い出も遠い。 残念なことがある。ふるさと相馬は福島原発の北に位置する。その原発事故現場で放射能に汚染された水の漏水が止まらないという。政府は終息宣言を発しているが地元ではだれもそうは思っていない。この漏水が海に流れ込むことは必至だ。これでさらに私の愛するあの美しいふるさとの海はさらに汚染が進む。この悲しみと怒りをどこにぶつけたらいいのか。事故からすでに2年、東京電力は危機管理すら出来ない組織に成り下がっているようだ。この企業体質、無責任の度が過ぎる。

夜桜を見に行こう

今年の東京の桜の開花は観測史上2番目の早さであった。理由は冬が寒く、3月に入って急に暖かくなったことによるそうだ。しかし、満開となるや花冷えが続き、なんとか4月に入っても散り急ぐこともなく残っている。 そんなこともあって今日は、学生時代の友人と新宿・花園神社の夜桜に行く予定にしている。かの神社はかつて、1960年代は境内で唐十郎率いる状況劇場が紅テントを張って公演したところで有名だ。親しい友人で大学の先輩でもある現代舞踏の巨匠・麿赤児さんもその重要なメンバーであった。桜も多く、私にとって桜と言えば花園神社というくらいで、かつて細かった木も今や見上げるような大きさとなっている。ここにも歳月の長さを感じさせられる。40年以上にわたって毎夜のごとくゴールデン街に出撃したが、春になれば酔って多くの仲間たちと夜桜を楽しんだもので、今は懐かしい。   今日から4月。 実はふるさと回帰支援センターの事務所は今日からレイアウトを大幅に変更した。これによって、より充実した相談体制が可能な形としていくことができる。直接の理由は、6月から山梨県が複数名の職員を配置してふるさと回帰運動に取り組むことによるものである。その他、3、4自治体がブース開設に向けての調整が入っており、センターはさらに賑やかになっていくものと思われる。 そんなこともあって、今日は朝からスタッフ会議を招集した。そして、マンネリを排し、提案型のふるさと回帰運動をめざそうと訓示した。日々新たに、これこそが現在のふるさと回帰運動のめざすべき方向であると考える。今や、この運動は当初の団塊世代の田舎暮らしのフォローのための運動から質的変遷を遂げ、現在に至っている。それは単なるいなか暮らしではなく、持続可能な暮らしをテーマにした文化運動的側面も加味されてきているといってよいようだ。   一昨年からの2年頑張ってくれた藤本君に代わり、福井県若狭町から池田和哉君(41歳)が出向で派遣されてきた。新しい戦力として期待も高い。是非、声をかけてください。

何から何まで、おかしなことが多すぎる。

東京の桜が咲きました。観測史上最速に並ぶ早さだということです。 今年の冬はことのほか寒く、耐え難かった日もあった。にもかかわらず、観測史上最速の桜の開花とは驚きであった。今日、所要で市ヶ谷に行ったが、3分咲きというところか。彼岸の入りとなったとはいえ、暦はまだ3月中旬。何かおかしいような気がする。過日は気温が25度まで上がり、夏日とか。翌日は20度以上も下がり、冬に逆戻り。今日も今日とて、外は強風が吹きすさんでいる。 東京有楽町の6階のふるさと回帰支援センターの私の後ろのガラス窓はヒューヒューと風が吹き抜けるたびに虎落笛が啼くような始末だ。 なんだか、気象の変動が激しすぎるようだ。   しかし、激しすぎるのは気象の変動だけではない。 ここにきての株価の上昇も半端ではない。かつて、23年前にパンクしたバブルの頃は自治労運動に没頭し、株価や住宅の値上がりにはしょせん縁がないとその動向に目配せをしていなかったが、今回は別だ。こんなことでこんなに株が上がっていいのかと思うほどに上がっている。世の中、こんなものだと言ってしまえばそれだけなのだが、それにしてもこれだけ上がるにはそれなりの根拠がいるはずなのにそれが見当たらない。誰かが「買いだ」といった瞬間から一気に我先に「買い」が「買い」を呼んでいるようだ。また、どこかで暴落し、泣く人が出るのは必定だ。人心も荒廃するだろう。 加えて、TPPも安倍総理は参加を表明した。これまた「みんなで渡れば怖くない式」でいこうとしている。冷静に考えれば、問題は日米間の問題につきる。12か国中6か国とはFTAが成っている。問題は日米間の問題である。過日のワシントンでのトップ会談で合意したなどと自民党は言っているが、オバマ大統領の権限で合意できるような仕組みにはなっていないことは明白だ。ここでもフレームアップが行われている。新聞は事実を書いていない。この間の新聞の主張はあまりにもいい加減だ。この国をどこに連れて行こうとしているのだろうか。TPP参加後の地方の荒廃は目に浮かぶようだ。目先のカネ(円)に、この国の地方やふるさとの山や川、田園風景を託すことはできない。ここは今後の21世紀の日本をどのような国にしていくのかを賭けた論争こそ不可欠であると考えるが、いかがであろうか。   調子に乗りすぎている自民党に21世紀の国の姿まで託すことは難しいのではないだろうか。過日、百田尚樹氏の「永遠のゼロ」を読んだ。突っ込みは浅く、驚くようなことは書いていなかったが、特攻隊のなんたるかを真剣に学んだことがなかった人には一読を進めたい。途中で何回も涙が止まらなくなる場面があった。現在に生きる人々は、先の大戦のことや若くして死んでいった先輩諸兄の無念さに思いをはせることがあってしかるべきではないだろうか。   このことを前提に置くと、この国は何から何までエッと思うようなことが多すぎる。 でも私はこのふるさと回帰運動に賭けていく決意です。 そして、ふるさとを、故郷の山河を守りたいと心底から思っています。

第1回遠雷忌が行われました

前理事長の立松和平君が逝って4年になります。この8日が命日です。   昨年の3回忌の席で、誰が言うともなく、毎年偲ぶ会をやろうということになり、数多ある作品から立松君の出世作である小説「遠雷」にちなんで遠雷忌と命名することに全員一致で決まりました。その時、毎年月命日の2月第1土曜日に、場所は彼のお墓のある下谷の法昌寺(福島泰樹住職)でということになり、先週の土曜日の2日に第一回が行われました。 参加者は約40名。高校、大学時代の仲間を中心に、大学の卒論で立松和平を書いた方や歌舞伎「道元の月」を上演した歌舞伎座の大沼専務、遠く知床からも佐野博さん、番屋の船頭大瀬さんなどゆかりの方々が集まりました。   遠雷忌はまず、福島住職の読経で始まり、焼香の後、福島住職が立松君と1971年に初めて出会った頃のなれ初めから始まる法話。次いで筑波大名誉教授で立松研究の第一人者と言われる黒古一夫氏の「立松文学の今日的意義について」の記念講演が行われました。この中で黒古教授は、立松文学は少しも色あせておらず、もっともっと読まれていい文学であることを強調していました。 その後、直会の席では、歳月の流れは早いというがもう4年になるのかと立松君を偲び、往時を語り合いました。参加者からは先の3・11の東日本大震災や福島第一原発の事故など、立松君が生きていたらどのようなコメントを述べたのだろうか、等というコメントもありました。   友人たちのカンパで建てられた立松君の慰霊碑は知床(斜里町日の出)にあり、毎年6月の第1日曜日に彼が建立した知床・毘沙門堂の前で毘沙門祭(総代・高橋伴明監督)が執り行われており、今年も6月9~10日に開催されます。その頃は原生花園のハマナスも満開で、知床は1年で一番いい時で、毎年行くのを楽しみにしているところです。

天孫降臨の町を訪ねて

新年あけましておめでとうございます。 ふるさと回帰支援センターは、新年は7日からのスタートでした。正月は久しぶりにゆっくりし、昨年話題になった「海賊と呼ばれた男(上・下巻)」を読みました。出光興産の出光佐三氏の自伝ともいえるような本で、明治人の気骨溢れる奮闘記、経営理念も学ぶべきところもあり、面白く読ませていただきました。 年末には、宮崎県高原(たかはる)町に呼ばれ、ふるさと回帰運動の現状、これから取り組むための必要なこと、いまなぜふるさと回帰なのかなどについて話をさせていただきました。全国的には遅きに失した感はありますが、3・11以降のふるさと回帰運動の設立以降のかつてない盛り上がり、とりわけ瀬戸内・九州が人気という背景もあり、成果が期待できそうです。町は、人口減に歯止めをという町長の固い決意のもと、町を上げて取り組む決意をし、すでに役場を横断したプロジェクトも立ち上がっています。高原町は霧島連山のふもとに位置する風光明媚な町で、天孫降臨の神話のふるさとで知られています。移住者アンケートの立地条件の第一には「自然環境のいいこと」が挙げられており、その条件にぴったりというところです。   政権交代した安倍自民党は、喜びを隠しきれないような雰囲気を漂わせながらスタートしています。7日の連合の賀詞交換会では、かつての60年安保闘争で退陣した岸内閣を引き継いだ池田内閣を彷彿させるような経済政策、とりわけ給与所得の引き上げを語っていました。一方、民主党はあいさつの場すら無いような有様で、悲哀を囲うような状況でありました。安倍総理は、20年にも及ぶこの国を覆う閉塞感を一掃しようとの想いなのでしょうが、危うさが否めません。ただ市場の反応は早く、株は急速な勢いで上がっています。今夏の参議院選挙まで、政治も株価も目が離せないようです。   ふるさと回帰運動は、引き続き丁寧な対応でこの盛り上がりを引き継いでいく決意です。 本年もよろしくお願いいたします。

「いのちの党」船出シンポに出席しました | 日常 VIEW MORE

「いのちの党」船出シンポに出席しました

ふるさと回帰支援センター発足以来、顧問に就任していただいている菅原文太さん(俳優)が呼び掛けた標記「いのちの党」のシンポジュムが12月5日、目白のフォーシーズンズ・ホテルで開催された。   このシンポには菅原さんの多彩な交友関係から約100名の多彩な方々が参加、「現在と未来の選挙民と立法府、行政府に提言するための、志を持つ個人の穏やかな集まり」と位置付けられた党(集まり)。現在、山梨県北杜市で農業法人を立ち上げ、農業に取り組んでいる菅原さんらしく、この党の志には「消費を楽しむ三次産業の社会から、生産を楽しむ一次、二次産業の社会への転換をめざし、そのために生産基盤となる地方に眼差しを注ぎ、かけがえのない価値を持つ農山村を再生し、活力をつける政策を提言する」と謳っている。   開会あいさつは福島県双葉町の井戸川克隆町長、脳学者の茂木健一郎、京都大の田中克名誉教授が行い、基調講演は「いのちの森の防潮堤」構想を提案し、今回の東日本大震災をうけて、青森から福島までの海岸線に南北300キロの「森の長城」建設を呼び掛けている横浜国大の宮脇昭名誉教授が行った。   この中では、それぞれユニークな発言が続き、大いに盛り上がったが、私には井戸川町長のあいさつが胸を打った。町長は、7000人双葉町民を代表し、帰るに帰れない双葉町の現状を訴えた。すでに、昨年の3・11から1年9か月、全国各地に散らばってしまった町民に思いをはせ、埼玉県加須市に仮の役場を置き、自らもそこに暮らしながら頑張ってきている。こうした現状において、国になり、県は全く今後の展望も明らかにせず、国策として造られた原発の事故についても謝罪もなく、某大臣は来て、支援しますというが、そもそも絶対安全と言って建設したものが事故を起こした以上、責任を持って、原状回復すべきものなのに現在まで放置している。町民がまとまって暮らす場所の確保を要請しても、県は一切回答せず、黙りこくるばかりと訴えた。立場を置き換え考えてみればわかるが、町長の立場としてやりきれない想いを抱えたままの1年9か月。この国の無責任さには語る言葉もない。巷では、相変わらず出来もしない、いいことばかりをちりばめた言葉による選挙運動が行われているが、どこにも被災者を想いやる言葉はない。この現実を放置した脱原発はない。いつからこの国はこんなにもいい加減な国になっていったのかと嘆かわしく思う。  

残念な鳩山元総理の引退

鳩山元総理とは同じ世代である。そんなこともあって、これまで一貫して注目してきた。しかし、いつまでたっても硬さが残る政治家であった。もう少し柔軟であってもよかったかも知れない。かつて、高知に選挙で入っていた時に民主党代表として応援に来たことがあった。帯屋町の中央公園で演説会があった。鳩山代表は、いきなり西郷南洲遺訓の一説を語り始めた。有名な「地位もいらない、名誉もいらない」というくだりだ。南国の日差しの中に立つ彼がまぶしく見えた。あれはいつのことか。   その後、政権交代があり、彼は総理になった。その頃から彼が遠くなった。気負いもあったのかもしれないが、言っていることが解かりにくくなった。結局、沖縄問題でやめざるを得なくなったのだが、言っていることは正論であった。ただ外交問題がらみの安全保障問題は相手のある話しであり、総理が言っても、成るものと成らないものがある。それは経緯があり、相手国の世界戦略もある。段階を踏んでしか、成らないことも明らかだ。本質的には国の存亡に関わる以上、簡単には行かない。これからの国のめざすべき方向をしっかりと提示し、国民的議論を背景に解決しなければならない。それを急ぎすぎた。   今回の引退は、彼らしいといえばそれまでであるが、国民には分かりにくい。庇を貸して母屋を取られたようなものだ。消費増税提案以降の民主党は、鳩山民主党とは明確に異なる。言っていることが言い訳がましく理解しにくい。今回の引退も、もう少し議論があってもよかったと考える。本人は引退すればいいが、彼を含んだ民主党を支持してきた支持者はどうなるのか。彼なり、菅氏なり、小沢氏なりがいての民主党だったはずなのだが、そういった人たちの影が薄く、すでに出た人もいる。時代の転換点なのだから、もっと丁寧な議論こそが求められたはずだ。このままでは政治家としても、総理経験者としても失格と言わざるを得ない。   総選挙も目の前だが、3・11という歴史に残る震災の後、しかも福島原発という、従来からの価値観が足元からひっくりかえるような大問題が発生し、復興への道筋も見えない中で、10を超える政党が乱立し、結局争点がぼやけている。鳩山氏の引退は氷山の一角かも知れないが、はたして底には何が隠れているのか。目を凝らして、注視が必要と考える。そして、なによりも投票は行かなければならない。

今年の夏から秋をふり返る

数日前の土曜日の夕方、空は一面の鰯雲であった。火のように薄赤く染まった一面の空は、あたかもふるさとまで続くのかと思われるような広がりであった。家路を急ぎながらも幾度も幾度も振り仰ぎ、見入ってしまった。 今年の夏はことのほか暑かった。8月下旬の自治労大会で訪れた函館は、この時期こんなに暑いなんて言うことは近年なかったことだと地元の人は口をそろえていた。 9月はふるさと回帰フェア2012で1カ月が駆け足で去ってしった。10月も現在取り組んでいる復興支援型地域雇用創出事業に追われ、半ばだ。そんな日々の中で振り仰げば夕焼けに染まった鰯雲、もう秋なんだと思った次第である。 自治労大会は、雇用延長の恩恵に浴し、ちょうど35年務めた自治労の最後の大会であった。かつての雑然とした中にも、熱気があふれ、独特の雰囲気があったがそれも消え、ずーっとスマートに大会になった。時代は流れた、老活動家の出る幕ではないのだと思った次第だ。最後の大会が函館というのも何かの縁、60年安保闘争の全学連委員長の唐牛健太郎氏の眠る地、彼の想いを引き継ぐなどという大袈裟なことではないが、一生の仕事に労働運動を選んだことを墓前に報告できたことはよかった。 復興支援型地域社会創造事業のビジネスコンペで10月初旬に約30年ぶりに遠野市を訪れた。30年前はまだ30歳代と若く、無茶なことをやったり、言ったりもして関係者には大いに迷惑をかけたかもしれないが、それも今で懐かしい思い出となっている。遠野は駅前もすっかりきれいになり、東北を代表するような地方都市に生まれ変わっていた。昨年の3・11大震災では岩手県沿岸部の後方支援の出撃地として大いに有効性の高い支援を行っていると話題になったが、その支援活動を担った遠野山里ネットと組んでこの支援事業に取り組んでいるが古くからの中継基地だった、その役割は何百年たっても変わっていないことが証明され、先人たちの目の確かさを改めて教えられた気がした。

酷暑の夏に想うこと

    歳の所為でもあるのかもしれないが、今年の残暑はことのほか厳しいようだ。であるからか、蝉の鳴き声も一段と大きいようだ。   今年のお盆も、ふるさと回帰支援センターはしっかりと休みを取った。せめて、お盆くらいは帰省し、どっぷりとふるさとの良さに浸って、これからのふるさとのことを考えてみようと、NPO設立以来、休みにしている。しかし、残念ながら昨年、今年と帰省することはできなかった。常磐線がいまだに寸断され、復旧の見通しが立っていないこともあるが、帰るべきふるさとの実家が先の東日本大震災の津波によって土台まで流されたからだ。帰れないから帰りたくなるのが人情である。そんなこともあって今年のお盆は、ふるさとの思い出にふけった。   私の生まれ故郷は、福島県相馬市の原釜という漁村である。自慢は白砂青松の海岸線がどこまでも続いていたことである。東北のどこにもあるような漁村ではあったが、幼いころはこんなに素晴らしいところは他にはないと思っていた。これが数十年前に埋め立てられて、相馬港という港に変えられている。そこで私のふるさとは心の中にしかないと思うようになった。その漁村にいたのは小学校の6年までである。   親友立松和平は酔うといつも、ふるさとを取り戻すためにはセメントに塗り込められた日本中の海岸線のそれを引きはがして、白砂青松を取り戻さなければならないといっていた。東日本大震災からの復興事業のひとつに白砂青松の海岸の復活をテーマにする地域もあってはいいのではないだろうか。   さらにもうひとつ、今年の東京のお盆は天気も良かったことあったが、空の雲が白く光り輝いてことのほか美しかったことだ。いつまで眺めていても飽きなかった。夏空に浮かぶ白い雲とはこんなに美しいものかとあらためて思った次第だ。

復興六起が始まった

昨年の3次補正で決まった内閣府の復興支援型地域社会雇用創造事業のうち、ふるさと回帰支援センターで取り組むことになった90名の社会的起業支援事業とインターンシップ事業400名がいよいよ始まった。実施場所は岩手、宮城、福島、茨城の被災県と福島からの避難者が多い米沢市、新潟県の長岡市など。 今週末の14日には第一回のビジネスコンペも岩手県北上市で開催される。すでに4月に仙台市には4月に東北本部事務所を開設していた。 今日は、あの東日本大震災から1年4カ月、しかし被災地の多くはいまだ手つかずのところも多く、これからも長い道のりを行くことになるようだ。とくに福島は原発の影響もあり他県に比べ大幅に遅れている。 昨日は福島県相馬市でこの事業の内閣府主催の現地説明会があった。生まれ故郷ということもあって参加し、この事業への応募をお願いしたが反響は多かった。しかし、予算が足りず、90名の起業家の支援ではどこまでニーズに応えられるか心もとない面もある。一方では、今日の東京新聞によれば昨年度は予算執行が遅れ、6兆円も残ったとあった。もったいないことである。いまさらながら、お金は使ってこそ生きる。ましてや復興予算はなおさらである。   帰りに、4月に避難解除になった南相馬市の小高区を訪れた。ここは被災当時のまま、家屋も無残な姿をさらけ出していた。海沿いの広々とした水田は作付けが禁止され、見渡す限り夏草が生い茂っていた。あの美しい日本の原風景ともいえる田園風景はどこにもなかった。原発事故はこうした面からも自然も人の心も荒廃させている。

蛍の乱舞を観た

一昨年から農水省の「食と地域の『絆』づくり選考委員」を仰せつかっている。その関係で過日、優良事例に選ばれた24地域の中の愛媛県内子町と北海道南富良野町を選考委員の方々と訪れる機会があった。 それぞれの地域ともさすがと思わせる内容で、地域住民の方々の地域の活性化にかける意気込みは、大いなるものがあり、非常に勉強になった。特に内子町では地域の景観の保全と古民家の活用による都市との交流事業に取り組み、成果を上げていた。そこでのポイントは、地域活性化に思いをはせる住民相互の心あわせがうまくいっていることにあるように感じた。また、地域にはふるさと回帰した若者も参加した形での企業組合方式による炭焼き事業にとりくむケースもあり、町並み保存による取り組みで全国に名をはせてきた内子町の新しい取り組みの一端を見た気がした。 夜にもなれば、古民家の周りは蛙の大合唱。川沿いまで行くとそこは何と蛍の乱舞、あたかもクリスマス・ツリーのような状況であった。あれだけの蛍を見たのは初めてのことで、これだけでも十分に売りになるのではないかと思った。売りになるといえば、内子町は栗の産地で、直径5センチもあろうかという栗が産出される。何とかこの栗のブランド化を模索中、宿題として預かり、戻った次第である。

大飯原発の再稼働で想うこと

過日、夏場の電力不足を理由に野田総理は大飯原発の再稼働を決めた。総理はまだ福島第一原発事故が何を引き起こしたのかわかっていないのではないかと思う。突き付けられたものが何だったのかもわかっていないのではないかとも思われる。 あの事故から1年3カ月が過ぎたが、現地はまだほとんど手つかずの状況にある。事故の原因も、津波によるものか、地震によるものかも明らかになっていない。万を超える地域住民は避難したままにあり、ふるさとには帰っていない。帰れる見込みのない人も多い。地域の環境も放射能に汚染されたままで農業もできないところある。さらに海も汚染され、現在まで操業自粛が続いている。漁の再開にはまだ見通しも立たない。 こうした状況での再稼働は信じられない。これからの我が国の原子力行政をどうするのかも決まらず、まして今後のエネルギー政策だって決まっていない段階での再稼働は、結局はこれまでの原子力行政に逆戻りとなりかねない。これではまったく意味がない。総理は、過日の会見で責任は私がとると大見得を切ったが、福島の事故を見る限り、現在まで誰も責任を取っておらず、いったん事が起きれば総理大臣でも責任など取れないほどの被害を地域社会に与えることになることは明らかだ こうした現状を見る限り、何も学んでいないことになる。もう一度事故が起きれば多分、この国は滅ぶことになる。それほど深刻な問題を突き付けていることを知るべきだ。そして、この問題を人任せにすることもそろそろにしないと本当に大変なことになることも知るべきだ。いつからこの国は、こんな無責任がまかり通る国になってしまったのか。

句会

私たちの句会は18年目。 先週末、友人たちと6カ月ぶりに句会を開いた。場所は法師温泉。 初めて開催してから、もう18年になる。酒を飲んでいて、句会でもやろうかとなったのかもしれない。メンバーは十数人。2年前に亡くなった立松和平君、映画監督として活躍している高橋伴明君。毎日新聞の社会部長を務めた清水光雄君。大地を守る会の藤田和芳会長もメンバーだ。他にも弁護士の三島浩司さん、医者となった鈴木基司君。 そうそうたるメンバーがしこたま酒を飲んで、他人の句をこき下ろす。これがストレス発散に良いようだ。誰一人として、もうやめようと言い出す人はいない。結果、こんなにも続いてしまったわけである。 中心は65年から66年にかけて闘われた早稲田大学の学費値上げ反対闘争の中心人物の一人彦由常宏氏だ。18年もやって少しは上達したのかと問われれば下を向くしかないものがあるが、それはそれでいい。第一回目は群馬の宝川温泉であった。 このようにして人生は積み重ねられ、櫛の歯が欠けるように一人ひとり逝ってしまう。中心人物だった彦由氏も逝って来年は17回忌となる。彦由氏が眠る周防大島の先の沖家室島での13回忌に、これでお仕舞にしようかと言ったら立松君が17回忌もやろうと頑強に言い張ったが、彼もいなくなった。 しかし、句会は続く。今回の季題は「ラムネ」と「紫陽花」であった。参加者は9名。3句読んで名前を明らかにせず選んでもらう方式で、トップは合計9票入った鈴木基司君で久しぶりに恵比須顔であった。小生はいつもながらの女々しい句を詠んで合計7票と善戦した。

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チャリテイー・オペラコンサートを開催しました

5月14日、千鳥ヶ淵のイタリア文化会館でチャリテイー・オペラコンサートを開催した。イタリア文化会館は初めてだったが、一歩中に入ればそこはヨーロッパという感じの建物で、音響効果のしっかり計算された立派な会館であった。 このコンサートはイタリアのオペラ歌手2名が、東日本大震災からの復興に取り組んでいる被災者の方々を応援したいが何か役に立てることがあるのかと考えた末に、歌で元気づけたいとコンサートを開催することになった。この動きを聞いたわが国のオペラ界を代表する歌手男女12名、伴奏3名の方々も参加を希望し、かつてない大掛かりなものになった。 コンサートでは歌劇「セヴィリアの理髪師」、「フェガロの結婚」、「椿姫」などよく知られた13の歌劇から、それぞれ1曲が選ばれて披露された。特に8名のソプラノ歌手の澄んだ歌声は聴衆を魅了した。 このコンサートは、14日以外にも、13日には宮城県石巻市、15日は福島市、16日はいわき市の久ノ浜小学校、同小名浜第2中学校で開催される。小名浜第2中学校は、私の母校であり、卒業以来約50年ぶりに訪れることになった。いい意味で、生徒諸君にカルチャーショックを与え、彼らの人生に何らかの希望を与えることになればと思っている。 このコンサートを主催し、世界のいろいろな分野の方々が日本のことを気にかけ、頑張ってほしいと思っていることを改めて実感させられた。公演の最後に、出演者全員で文部省唱歌「ふるさと」を合唱していただいた。その澄んだ歌声を聴きながら、今回の大震災で起きた福島原発事故によって放射能で汚染されたふるさとの山や海を思い起こし、涙が流れて仕方がなかった。政府は、東京電力は、とんでもないことをやってしまったのだと怒りが込み上げてきた。

42年振りの原発の全停止

季節の移ろいは、動き始めると早い。 今年の冬はことのほか寒く、長かった。 4月になっても初めの頃はコートが手放せなかった。 梅も咲くのが例年よりもだいぶ遅かった。 なぜなら、一昨年の2月8日に親友の立松和平君が逝ったが、その夜に詠んだ句が「立松が 逝った夜にも 梅香る」だったからだ。(今年2月に行った3回忌で、参加者全員の意思で来年から2月の第一土曜日の午後に下谷の法昌寺で「遠雷忌」として偲ぶ会を開催することになった。) それが、桜が咲いたと思ったらいつの間にか散り、今頃は津軽海峡を渡っているはずだ。その後の花ミズキも、もう散り急いでおり、牡丹も、もう散り始めている。すでに新緑の候なのだ。 そこで問題になっているのが夏場の電力不足問題だ。政府は、どこよりも電力不足を指摘されている関西電力の大飯原発を再稼働させたいようだが、近隣自治体を含めた合意形成が出来ないでいる。それもそうだ。福島第一電発の事故によってかろうじて積み上げてきた原発の「安全神話」が脆くも崩れ、原発立地自治体にとどまらず、多くの自治体が放射能によって汚染され、いつになったらふるさとに帰ることができるのか全く見通しが立っていない。原発は事故が起きたら大変なことになるといわれてきたが、勝手に作られた「安全神話」を真に受け、容認してきた。それが、初めて原発事故の恐ろしさを実感させられたから、おいそれと再稼働を認めることができないのは当然だ。 そして今日、5月6日、1970年以来42年ぶりに国内の50基すべての原発が停止した。テレビでは、再稼働賛成、反対の住民の声を流しているが、賛成の住民は自分の生活が成り立たなくなるので動かしてほしいと意見を述べている。言うのは自由だが、一旦、事故が起きた時、その方々はどう責任を取るというのだろうか。いや、責任などとれるはずもない。命で購ってもどうにもならない。 ここは一番熟議の時だ。 福島県浜通り出身の私として、放射能で汚された山や川、そして生活の糧を得てきたあの美しい海を見る度に、二度と再び原発を稼働させてはならないと思っている。今回の福島第一原発の事故についても、いまだ誰も責任を取っていないし、誰にも責任など取れない。そういうことをやっておきながらの再稼働はあまりにも無責任である。

事務所引っ越し報告パーティー | 日常 VIEW MORE

事務所引っ越し報告パーティー

東京は雨。 花冷えの寒さで一度脱いだコートを着て出勤した。 過日開催した事務所引っ越し報告パーティーには多くの方に顔を見せていただき、事務局もてんてこ舞いの忙しさでした。NPOの構成団体の連合、全中、JF全漁連、農業会議所、大地を守る会などの副事務局長や専務理事たちが顔揃えていただきました。うれしい限りですが、責任の重さもひしひしと感じさせられました。また、大分県竹田市の首藤市長、埼玉県の鶴ヶ島市の藤縄市長、行動する首長会議の代表幹事の一人である長野県木島平村芳川村長、各県の東京事務所の方々。さらには嶋津顧問や地域活性化センターの石田理事長、同事務局長も忙しい中、参加いただきました。御礼申し上げます。 祝電も多数いただき、友人の猪瀬東京都副知事からも熱いメッセージが寄せられました。6年前の虎ノ門パストラルから東銀座への引っ越しの時も多くの方に来ていただきましたが、今回はさらに多くの方の出席をいただきました。ありがたいことと感謝しております。 ただ、残念なことが一つありました。友人の皆吉衆議院議員からいただいた「森伊蔵」をあんまりうれしいので提供したのですが、飲もうと思ったときには、もう無くなっていました。これは残念で、心残りでした。 昨日、日曜日でしたが、前からの約束もあり、香川県の相談会を事務所が休みにもかかわらず特別に開きました。そこになんと92組147人もの方が詰めかけ、こちらが確認しているだけでも11組の方を会場関係で断る始末でした。 5月中旬には岡山のセミナーも予定されており、最近の相談者の急増ぶりは大変なものがあり、せっかく事務所を引っ越したにもかかわらず間に合わないような状況です。 確実に、都市から地方への人の移住が始まっているようです。昨年の3・11以降、すべての面で時代が変わり目に来ているのではないでしょうか。戦後67年の暮らしを、しっかりととらえ返してみることが必要なようです。

中上健次の墓参り 

 過日、和歌山県古座川町に出かけた。理由は古座川町にある県の定住センターの業務委託をふるさと回帰支援センターが受けており、新年度の業務内容についての説明と訓示を行うためだ。 すでに山桜は満開だった。その山桜に誘われるように、新宮市まで足を延ばし、懸案だった懐かしき畏友・中上健次氏(戦後生まれの初めての芥川賞作家)の墓を訪ねた。 彼は新宮市の出身で、紀州にこだわりぬいた作家だった。 私が学生の頃にはよく早稲田に来ていた。そこで知り合い、以後よく二人で飲みに行ったりした関係であった。彼は酔うと荒れてよく人を殴ったといわれており、立松和平君は酒席での同席は回避することがよくあった。彼は私の前ではそのようなそぶりは見せず、いい酒であった。 もう亡くなられて18年になる。訪ねた墓はよく管理されているようであった。 人影もなく、ひっそりと18年の歳月を積み上げ、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。墓に供えられた黄色い花が春の風に揺れていた。上空は風が強いようで大きな木の梢を鳴らしていた。 あー中上氏はここで休んでいるのかと想い、かつて二人で飲み歩いた夜のことなどを思い出してみた。 すでに私も齢60も半ばに達し、残された時間は少なくなってしまったが、とも生きた時代は永遠に心に生きていると思った。 新宮駅の観光案内で中上氏の墓を訪ねたら親切に教えてくれた。駅の外に出たら潮のにおいがしたような気がした。中上氏はここで育ったのかと思ったらフッと路地から彼が出てくるような気がしてならなかった。そして、何かこみあげてくるものがあった。 逝ってふるさと回帰し、ふるさとの墓地に眠る。 これもまた一つのふるさと回帰であることは間違いない。忘れられない一日となった。

ふるさとブログをスタートします

 4月から東銀座にあった事務所を有楽町駅前の交通会館に引っ越ししました。理由は簡単で最近の相談者の急増に対応するためです。  理由はいくつかあるのですが、一つは昨年の3・11以降、国民の意識が変化し始めていることにあるようです。消費型の暮らしに対する見直しの機運が高まっていることです。さらに、被災3県からの住民の流出などがあるようです。放射能からの逃避もあるようです。このように、ふるさと回帰運動は設立以来の活性化で、理由はともかく、やっと10年の苦労が日の目を見たという感じになっています。  また、このほど仙台市に東北本部事務所を開設しました。これは昨年度予算の3次補正にあった震災復興型地域社会雇用創造事業のコンペで事業者の一員として12団体の一つとして選ばれたことによるものです。当面、この間取り組んできた「ふるさと起業塾」の具体化として1年間、被災地に入り、90名の起業家と400名のインターンシップ事業に取り組みます。  福島県出身としてふるさとの復興のために何か役に立ちたいと思っていた身としては願ったりかなったりの事業です。昨年の震災直後からふるさと再生カンパに取り組み600万円を超えるカンパを集中していただき、被災各県の会員自治体を中心に物資の救援や金銭の支援に取り組んできましたが、もうひとつふるさと回帰新センターらしい震災復興事業ができないものかと考えていたところですので、しっかり取り組もうと決意しているところです。  HPのリニューアルに伴い、懸案であったブログを今日から開始します。月に何回書けるかわかりませんが頑張りますので期待してください。  皆さん、もう花見はしましたか?  いつのころからか、花見をするたびにもうあと何回出来るのかと思うようになりました。人生の盛りが過ぎたということを意識し始めたことによるものでしょうか。最後にふるさと回帰運動で社会貢献できることができて本当に良かったと思っています。  皆さん!一緒にやりましょう。  私たちの大好きなこの国の持続可能な発展のために。

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