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芸術・文化の町づくりもある

 8月に入って、猛暑が続いている。40度を超えるというのははっきり言って異常気象と言っていい。中国も上海など南部は猛暑で、黒竜江省など北部は大雨で洪水だそうだ。日本も各地がゲリラ豪雨に見舞われ、被害が出ている。総じて、日本海側の各地がやられているようだ。一方、太平洋側は日照り続きのようで、一般的に雨の多い紀伊半島も水不足が深刻なようで、和歌山県の定住センターがある南紀の古座川町も日照りが続いており、大変だと過日の業務報告にあった。  過日、石川県の2年先に新幹線が入る石川県の対策会議に参加させていただいた。北陸3県の内、石川県だけが私どものふるさと回帰支援センターと本格的な連携が取れていなかった。富山や福井と比べ、金沢を抱えるだけに求心力があり、別に取り立ててふるさと回帰運動に参加しなくても何とか形がついているという認識のようであった。しかし、ここ数年、様子は少し異なってきている。ふるさと回帰運動が活性化してきているようだ。さらに能登を中心に県内も過疎が深刻になり始めてきた。加えて、いよいよ2年先には新幹線が入り、首都圏と2時間半で結ばれる。このチャンスを逃がす手はないと、やっと重い腰を上げ始めたのである。金沢を抱える石川県はなんといっても加賀100万石、文化の香りがする町だ。かつては、団塊世代なら知らない人がいない、かの五木寛之氏も金沢に住んだ時代があり、ちなんだ小説も何冊か書いている。文化を売りにするだけで十分に売りになる。この特徴を生かした暮らし方を提案することは新しいタイプの取り組みになる。県の観光プロデューサー氏も対策会議では「観光の先に移住がある」と話しておられた。  そういえば、10日の朝日新聞のBeに古くからの友人である北川フラム氏が取り上げられていた。40数年前からの知り合いで、懐かしき人である。新潟県の妻有で大地の芸術祭を提案し、成功をおさめ、最近では瀬戸内ビエンナーレを仕掛け、大きな成果を上げている。芸術や文化を媒介にした地域活性化は大きな可能性を含んだ取り組みであると考える。全国各地で、芸術家を受け入れながらの地域再生で成果を上げているのは、最近では徳島県の神谷町がそうだ。 友人の活躍がマスコミに登場することはうれしいことだ。よし、もう少し頑張ってみようかという気になる。さらなる活躍を期待したい。  明日からふるさと回帰支援センターはお盆の休み、頼まれている観光甲子園の審査会の資料を読むことにしている。お盆はふるさとが近くなる時期だ。それぞれのふるさとを考えて見るにはよい機会だ。

地球環境が傷んで、泣いている

中国地方はかつてないような大雨とのこと。温暖で穏やかなイメージがある彼の地は、ふるさと回帰の希望先として人気が高いところであるが、そこが豪雨に見舞われているとは驚きだ。津和野なども河川が氾濫しているとのこと。かつて訪れた時にゆったりとコイが泳いでいた堀も増水し、氾濫しているようであり、あの鯉も流されてしまったのだろうかと思っている。 わが故郷・福島県相馬は河川が少なく、江戸時代の二宮尊徳の報徳農法による農業用の貯水池が各地にあった。この池が子どもたちの絶好の遊び場で、フナ釣りや夏ともなればプールがわりの泳ぎ場となる。大雨ともなれば、池の決壊を防ぐために放水を行っていた。すると放水と一緒に池のコイやフナが流され、雨上りの田んぼの用水路などに思わぬ大物が流されていたりしたものだ。 今回の中国地方の大雨を見て、そんな牧歌的なことを想うとは不謹慎この上ないが、最近の集中豪雨は桁が違う。地域全体が水没してしまうようなすごさで、気象庁も「これまで経験したことの無いような」大雨と警戒警報を出した。地球環境が傷つき、泣いているようだ。 思うに、この集中豪雨は近年のことだ。東京などでもよく氾濫するが、雨粒が大きくなっており、従来の都市計画で想定している道路の排水溝では一気に降る雨を排水できないそうだ。これも温暖化の影響ということのようだが、この集中豪雨も年々、スケールが大きくなっている。北極海の氷もかつてない程に小さくなっているそうだが、そうした影響もこの豪雨につながっている。最近は一時ほど温暖化防止を語る人が少なくなっているようだが地球温暖化は着実に進行している。改めて温暖化防止の取り組みの重要性が語られるべきだ。かくいう私もかつては連合の環境政策担当で地球温暖化防止条約締結国会議がいくつかの国で開催され、そのたびに参加し、各国の労働組合とも意見交換し、2002年のヨハネスブルクでの環境サミットにも参加している。   引き続き、ふるさと回帰支援センターを訪れていただく人が増えている。ひょっこりと近くまで来たのでとお訪ねいただく。 過日は、前福島県知事の佐藤栄佐久さんにお訪ねいただいた。昨年の「ふるさと回帰フェア2012」の前夜祭のパネルデスカッションにも登場していただき、交流会にも参加いただき親しく意見交換させていただいたこともあり、大歓迎。福島県が積極的にふるさと回帰運動に取り組むきっかけも作っていただいた方である。 また、地域活性化センターの石田理事長にもお訪ねいただいた。今回任務終了ということであいさつにみえられた。地域活性化センターとは年2回程度交流会を持って意見交換してきた関係もあり、あいさつにみえられた次第。その後、聞くところによると全国町村会の事務総長に就任されるとか、気さくなお人柄から全国の首長さんたちにも大いに影響力を行使されるものと期待している。その他にも、長野県の木島平村や秋田県三種町の首長などにもお訪ねいただいている。今後とも意見交換は望むところである。 驚いたことに、なんと安倍総理の昭恵夫人にも来ていただいた。人柄もさることながら名刺がまた素敵で、選挙区の下関(馬関)港にカモメが飛び、外洋に出る貨物船が係留され、遠くに関門海峡が描かれている図柄で、お人柄が偲ばれるものであった。ご健勝を切に祈りたい。

大山村塾(千葉県鴨川市)で講演しました

13日に千葉県鴨川市の大山村塾において、「ふるさと回帰運動の10年を語る」と題して講演しました。 ふるさと回帰支援センターにとって彼の地は、2番目の地域版のふるさと回帰支援センターが設立されたところです。鴨川には、数年前にジャーナリストの高野孟さんがIターンで移住し、昨年4月から地元の大山小学校の廃校跡地を借りて大山村塾を開校しています。今回は、そこで前回講師を務めた菅原文太さんに続き、講演を頼まれた次第です。 関東地方は、ここ2週間ほどは茹だるような暑さで、当日も酷暑そのもののような暑さでした。ただ、会場は廃校の体育館ということもあって、風が吹き抜け、その風はふるさとの母校の体育館での夏休みの合宿を思い出させるような、草木の匂いを含んだ快いものでした。 鴨川市のふるさと回帰支援センターの昨年度の問い合わせ件数は270件とのこと。ふるさと回帰運動全体の盛り上がりを反映した結果となっているようです。塾が設立されている大山地区には多くの移住者がおり、コミュニティ・カフェもあり、移住した陶芸家の方から記念のぐい飲みを、高野さんからは20年物の日本酒の古酒をいただき揚々と帰ってきた次第です。 地域に人が移り住み、塾が開校され、たまり場としてのカフェがあり、さて次は何が必要なのでしょうか。 直会のビールの酔いの中で私は、その廃校を地域のセンターとして活用できないかと考えました。そして、過疎化が進む房総半島全体を射程に入れて、首都圏からの田舎暮らし希望者の宿泊可能な研修センターを展望したいと思いました。ふるさと回帰支援センターの6月の問い合わせ件数は960件を越えています。これは3・11の東日本大震災直後に匹敵する数です。前回で紹介したとおり、山梨県への問い合わせが全体の問い合わせ件数を押し上げていますが、そのうち約60%は悠々自適を希望するシニア世代です。 千葉県の場合、地域的にも東京から近く、山梨県に負けず劣らずの有利な条件下にあります。しかし、現在まで県は動きが見えません。房総地域の各自治体は鴨川市をはじめ、館山市、南房総市、いすみ市など、それぞれの自治体はここ数年、必死になって動いてきました。しかし、市町村ではおのずと限界があります。そろそろ県の出番と思っています。ようやく県としてもふるさと回帰支援センターの会員にもなって頂いたので、これからの動きに期待したいと思います。ちなみに先月の希望地問い合わせランキングでは千葉は5位です。 9月のふるさと回帰の準備も遅ればせながら順調に進み、ポスター・チラシは今日、出来上がってきました。イラストは団塊世代には懐かしいマンガ「あしたのジョー」の作者のちばてつや先生に書いていただきました。チラシが欲しい方は、ご送付いたしますので事務局までご一報ください。

山梨県の実力を見た

6日、梅雨明けした。満を持したような勢いで東京は一気にむせ返るような暑さとなっている。 今年も6月最後の週に知床に行き、先週末は函館に行き、北海道の夏を経験しているので、今夏の急な梅雨明けは身体に応える。   函館は、60年安保闘争の全学連委員長の唐牛健太郎の墓建立23回忌で行ったもの。来年は没30回忌ということで、久しぶりに歴史を検証する文化講演会を函館で開催することを参加者一同で確認した。 今年の墓参りには、かつては立場を異にし、以降、叱咤激励し合う関係というのか奇妙な信頼関係にある(私はそう思っている)一水会の最高顧問鈴木邦男氏も参加された。前から一度参加したいと言われていたので誘った次第で、今回初めて実現したものである。 これまでも会えばあいさつはしてきたが、今回初めて少し話をさせていただいたのだが、義に篤い、心に響くものを持った人であった。鈴木氏も福島県ゆかりの方ということで、一緒に函館最古の寺院・高龍寺に行った。そして境内にある「傷心残目の碑」もお参りした。このお寺は最後の函館戦争の時の病院で、負傷した会津の兵が立てこもったところ。そこを突然襲った津軽や松前の兵によって医師を含む兵が惨殺され、火をつけられたことで、この碑が建立されている。143年前のこととはいえ、こうしたところにもふるさと・福島のゆかりの地があり、ひどい目に合っている。歴史の残酷さを想わざるを得なかった。     ついに記録が更新された。 といってもそれはセミナーの参加者の数についてである。昨日の岡山県の移住相談会の参加者が159組269名に達した。夕方4時で締め切ったため、相談できなかった人もあったとか。それにしてもすごい数である。中国地方の人気は衰えてはいないようだ。同日は、JR東日本と組んだ長野県佐久市のセミナーも開催された。こちらは大人の休日クラブ会員限定のセミナーであったが、こちらも満員の盛況ぶりで、ふるさと回帰運動の広がりを実感させられる一日となった。 このほど、6月一カ月の来訪者の集計が明らかになったが、何と2年前の2011年の東日本大震災以来の950件を越える数の多さになった。その理由はいくつかあろうと思うが、一番は6月から山梨県がふるさと回帰支援センター内に人員を配置したブースを開設し、移住と就職相談を合わせて対応していることによるもののようだ。来客も一カ月で170件を越えた。断トツのトップの集客である。周辺地域の相談が増えたり、負けてはいられないと周辺地域もPRに注力したこともあり、いい意味での相互作用による相乗効果による結果が生まれているのではないだろうか。事務局としてもある程度の結果は予想されたが、こんなに早く成果が出るとは思わず、山梨県の実力を見せつけられた気がする。

動き始めた高知県の移住対策 

7月になった。まだ梅雨は上がってはいないが、今日は朝から暑く、夏背広がうっとうしいような気がした。梅雨明けも近いのではないだろうか。 6月29~30日、恒例の毘沙門祭で北海道・知床に行ってきた。彼の地は前理事長の立松和平君が愛してやまなかった地で、ログハウスまで購入し、滞在したこともある地である。そこに早稲田の先輩で歌人、法華経の住職でもある福島泰樹さんの協力で毘沙門堂を建立したのが19年前、毎年例大祭を行っている。それに参加したのである。知床は、今年は寒く、5月に60cmも雪が降るなどして、知床横断道路は開通が遅れて、やっと7月1日からということだ。ただ、今回は天気が良く、暖かさも十分で知床の夏を満喫することができた。   地元の農家の人に話を聞くチャンスがあり、TPP問題について伺ったが不安は大きいようだ。このままTPPへの参加が強行されれば1/3の農家は離農せざるを得ないのではないかということであった。明治になって本格的な北海道への入植が始まって100年にはなるのだろうか、荒野を開墾し、今や広大な農地となった、豊かな大地が離農ということで荒廃していくのは悲しい。まして、この大地と格闘してきた先達を想うと他に手がないのかと心から思う。 ただ単に、利益を得ることを第一に考え、国の形や姿、食料安保や自給率の確保を考えず、アメリカの要求に屈し、国を売るようなことは「百害あって一利なし」と言わざるを得ない。すでに人心の荒廃はとめどなく広がる現状において、さらに悪化することは明らかである。「衣食足りて礼節を知る」のは当然のことである。格差社会を拡大することによって、この愛すべき国土を荒廃させてはならない。   さて、いよいよ高知県の移住への取り組みが本格化してきたようだ。5月の東京交通会館での相談会には83名の参加があり、大いに賑わったが、6月30日にもまたふるさと回帰支援センターで相談会を開催し、56名の参加者を得た。今回はゲストにビックコミック誌の「釣りバカ日誌」の主人公・浜崎伝助のモデルとも言われる黒笹慈幾さんをお呼びして、高知暮らしの楽しみ方を語っていただいた。この取り組みのキャンペーンポスタ―もまたいい。チャッチコピーは「高知県はひとつの大家族やき。」で、ちゃぶ台の前に高知出身の広末涼子が座っている。このレトロさが目立つようだ。

NPO総会が開催されました

第15回NPOふるさと回帰支援センター総会が21日に開催された。総会に先立って理事会が同日午前11時から東京交通会館地下2階会議室で開催され、総会議案等を原案のまま、承認された。理事会には11名の理事の内、6名が出席。書面議決書で意思表示が5名。代理が3名出席し、傍聴した。監事も1名出席した。 総会は会員総数264名中26名が出席。委任状による出席が108名、同計134名で成立した。今年は理事改選の年に当たり、3号議案で新たに1名の理事を追加し、12名体制で運営する提案をして、原案通り承認された。 昨年秋に、NPOとして設立されて10年が経過したことを踏まえ、マンネリ化を排し、さらに創造力豊かに都市と農山漁村との交流・移住推進に取り組むことを基本にした事業報告、事業計画についても、原案通り承認された。   先週末、久しぶりに鳥取県自治研センター主催のシンポジウムに参加するために鳥取県を訪れた。だいぶ暑くなっていたが、穏やかな気候で空港に降り立った際に、何だか癒されるような気分にさせられた。 羽田空港では学生時代の後輩とばったり会った。なんでも母方が鳥取県出身とかで墓参りに行くところとのこと。彼は今を時めく村上春樹氏と高校、大学と一緒で、ジャズを愛し、かつては村上氏とはとても近い関係だったとのこと。現在は広告代理店を経営し、小生も株主の一人になっている。ふるさと回帰支援センターのロゴマークは彼の会社の提案で始まった。   シンポジウムは、人口減少社会における若者の雇用と定住に関する調査研究として鳥取県内の居住意向調査等に関する若者の意識調査結果を踏まえて開催された。テーマは「人口減少社会における定住・移住にむけた町づくりー2×××年 鳥取県が消えてなくならないために―」とされた。調査結果からは県内の高校生は50%が県内進学を希望、県外進学は8%に留まった。しかし、県外就職は8%に留まり、県外は18%と地元志向が明らかになった。 この結果を踏まえ、シンポジウムは行われ、私は基調講演とパネリストとしてのコメントを求められた。古巣の自治労の要請とあらば何はさておき駆けつけるのが浮世の義理というもの。精一杯務めさせていただいた。 講演内容は10年間のふるさと回帰運動の動向と現段階の課題について。団塊世代の地方回帰で始まったふるさと回帰運動も、団塊世代から若者へ、さらに子育て世代へと拡大し、10年掛かって社会運動として一定の評価をいただくようになったことを語った。特に、近年の著しい若者の田舎暮らしの増加について語り、ふるさと起業の重要性を強調させていただいた。 石に上にも3年と言われるが、全国的な規模の社会運動をそれなりのものにするのには結局、十年かかったということも率直に語った。10年継続できたのは何も自分がやったのではなく、多くの団体や個人の協力があったればこそと思っている。幸運だったということに尽きるような気がする。

韓国からの視察団が来た

韓国からの視察団が6月に2団体が予定されていた。しかし、残念なことに一団体は現下の日韓関係から、参加者が減って延期となった。日本にいるとわからないが、だいぶ緊張の度合いが強いようだ。韓国の朴大統領は女だから舐められてはいけないと筋張った対応をしているのかもしれない。個人的には好感が持てる。 もう一方の団体である京畿道楊平郡日本農業研修の一行は総勢29名でやってきた。ふるさと回帰への関心も高く、あちこちから質問があがった。主な質問では、いきなり地方に入って行ってうまくいくのか、地域とのトラブルはないのか、若者の田舎暮らしが増加しているようだが、子どもの教育における問題はないのか、など教育熱心なお国柄を反映した質問も寄せられた。 韓国は最も身近な隣国である。歴史的にも深い関係を結んできた国でもある。よく言われることだが、迷惑をかけた方はすぐ忘れるが、かけられた方はいつまでもよく覚えている。従軍慰安婦問題も、あったか、なかったのかを争うだけでは問題の解決にはならない。事実関係をはっきりさせるなど、歴史的な総括をしっかり行い、将来性のある関係を再構築すべきだと考える。 個人的には、韓国人は感情が激し過ぎる人も見受けられるが、フレンドリーな人も多く、仲良くやれる方々だと思うが、いかがであろうか。4年ほど前に講演で呼ばれ、かの国で話をし、夜は飲み会となったが、どうもよその国にいる感じがしなくて困ったことを思い出した。   前のブログにて紹介した、団塊世代のネットワークのNPO法人プロジェクト猪の総会での鳩山さんの講演会は、概ね参加者たちには好評であった。 最後は普天間問題が総理辞任のきっかけになったようだが、これは既得権派が寄って、集って鳩山さんを追い込んだ結果のことのようだ。まず、前提は日米関係を従来通り維持することに置いたことから始まる。鳩山総理は沖縄の負担軽減をどうすべきかを考え、県外で受けてもらうしかないと判断し、最低でも県外と発言した。これが無責任と指弾されたが、政府のトップが初めて方向性を示したことから、沖縄では鳩山さんの人気は高い。東アジア共同体構想も既得権派にとっては許されないことだが、戦後68年たってもアメリカの後ろについて歩くことだけでは何も変わらない。常時駐留なき日米安保こそ目指すべきと考えたことから東アジア共同体は出てきているようだ。2009年のトップ会談に臨んだオバマ大統領は政権が変わったのだから、そういうこともあるのではないかと理解を示してくれたとも話し、政権交代で日米関係がめちゃくちゃになったと安倍自民党は批判したが、そうした事実はなかったと語った。 逆に、安倍総理こそ、オバマ大統領に忌避されているように見受けられると現状を語った。さらに、終盤の民主党政権について、小沢問題に代表されるマスコミを含めた米・財・官・電などの既得権派の事実の粉飾による民主党たたきを行ったが、いかがなものかと語った。鳩山氏は交流会にも参加され、久しぶりの同世代であるプロジェクト猪メンバーと語り合った。メンバーの中にこれまで鳩山さんは何回、私どもの会合に参加されたかを数えている人がいて、今回がちょうど5回目ということであった。ますますのご活躍を祈念したい。

6月に想うこと

季節外れの台風が来ているようで今日は雨。梅雨に入ったはずなのに雨も降らず、降ったと思ったら台風の雨が降り、今年は天候不順である。何かが少し狂っているようだ。 前回も書いたが、山梨県のブースには順調に来訪者が訪れて、2週間足らずで40名の来訪者になろうかという状況となっている。もともと「週末は山梨にいます」というキャッチコピーで2地域居住の取り組みで成果を上げ、田舎暮らしでは八ヶ岳山麓を中心に数千名の居住者を数える地域だけにそれなりの反応は予想されたが、折からのふるさと回帰運動の盛り上がりもあって上々の滑り出しとなっている。 また、最近明らかにされたが人気の中国地方の鳥取県が2012年度で県外からの移住者が前年度比で4割増の706名に達したとのこと。中国地方では一番早くから東京と大阪のふるさと情報センターにブースを構え、積極的な移住者の確保に取り組んできたが、その成果が出たというところである。移住前の居住地は大阪が93名、東京が77名、兵庫が76名とのことである。   6月は企業の株主総会の季節でもあるが、NPOの総会の季節でもある。古くは1960年の安保闘争も6月に岸総理(安倍総理の御祖父)打倒と学生や労働者など数十万人が全国から集まり、幾重にも国会を取り囲んだこともあった。こうしたことから、6月の声を聴くと、とりわけ思うことがあり若き日の頃の様々なことを考える。 今週末の15日には20年前に立ち上げたNPO法人プロジェクト猪の総会が予定されている。このNPOは団塊世代のネットワークで私が代表である。今年の記念講演は団塊世代の政治家の代表でもある鳩山由紀夫元総理が「権力の中枢でみたこと」をテーマに祖直な話をしていただくことになっている。 次週の21日はふるさと回帰支援センターの総会。1年間の事業報告とこれから1年の事業計画が提案される。3・11をきっかけに大きく盛り上がってきたふるさと回帰運動の在り方をめぐって活発な意見交換をできることを期待したい。   さらに6月は紫陽花の季節。雨に打たれた紫陽花は、それはそれで風情のある花で好きな花の一つである。 一句  「紫陽花に 心奪われ 雨の中」

地銀が県と移住推進で協定かわす

6月になった。5月下旬に梅雨入りしたが、もう梅雨の中休みに入ったようで、今週は晴れた日が続くとのこと。昨日は、過日、講演に呼ばれた神奈川県大磯町でNPO大磯大好き倶楽部主催の地引網大会に参加してきた。当初は雨模様との天気予報だったが、梅雨前線が南に下がったこともあり、薄日が差す絶好の地引網日和となった。相模灘に面した大磯町は古くから地引網が行われていたようで、現在でも2軒が継続的に行っているとのこと。砂浜が続く海岸線は見渡す限り、遠くまで砂浜が続いており、その先には雪を頂いた富士山が美しい姿を現し、まさに絵のような景色となっていた。 私の地引網の体験は何と50年以上も前のこと。いまは相馬港となってしまった相馬市原釜(はらがま)は、かつては美しい遠浅の砂浜が隣町の新地町釣師浜(つるしはま)まで続き、それは美しい白砂青松の浜であった。初夏ともなれば、子どもたちが集まり、延々と網を引き、鯵やサバ、ヒラメなどが面白いようにかかったものだ。小鯵などは手で頭を取り、指で三枚に開き、さっと海で洗い、口に放り込む。なんともいえない旨さであった。 この白砂青松の風景は、太平洋側の東北地方にはどこにもあった風景であることが今回の東日本大震災で知った。かの奇跡の一本松で有名になった陸前高田市の高田松原も多分同じような風景であったのではないだろうか。この懐かしい風景も全国各地で残っている地域は数えるくらいしかないのではないか。多くは、景観ぶち壊しのテトラポットで埋め尽くされているようだ。淋しい限りである。さらに、今回の東日本大震災で海岸線は10mを超える防潮堤で取り囲まれることになる計画のようだ。せめて、森の長城で国土を守ってほしいと願うのは私だけではあるまい。   今月から、山梨県が「やまなし暮らし情報センター」をふるさと回帰支援センター内に開設した。1日には横内知事も参加したシンポジウムが開催された。パネリストにはやまなし大使を拝命しているシンガー・ソングライターのイルカさんも参加。30年以上別荘として山梨県に住んでいる経験を踏まえた山梨県の魅力を語った。この開設セレモニーに先立つ5月31日には県と山梨中央銀行が協定を結び、17の支店長・営業所長がアドバイザーとして移住相談に応ずるほか、各支店内の大型テレビで移住を呼び掛ける映像を流す。さらに、古民家のリフォーム資金の低金利融資など、移住につながる商品の開発も行うことにしているとのこと。こうした定住人口の確保を目的に県と地方銀行が協定を結んだケースはない。成果が注目されるところである。 先月からの山口県と高知県のブース開設に引き続く山梨県のセンターの開設で、ふるさと回帰支援センターの田舎暮らしを希望する都市住民に向けた求心力はさらに高まるものと期待が高まっている。 移住希望者の絶対数が急増している現状を固定化し、さらなる道府県のブース開設により、人口減を上回るふるさと回帰者の増加をめざし、地方人口の持続可能な形での増加を目指したいものだ。そのためには、全国各地でのモデルとなるような田舎暮らしのケースを発掘したいものだ。

ふらりと薫風に吹かれて旅に出よう

関東地方も今日、梅雨に入ったとのこと。例年より若干早いような気がします。桜も今年は早かったようで、全体が前倒しという感じがします。天候の不順などなければいいのですが・・・。2011年の東日本大震災以降は、天変地異がどうしても心をよぎるようになっています。少しでも例年と違うとまた何かが起こるのではないかと思い、自然と無事を祈るような気分になってしまうのは自分だけでないのではないでしょうか。 過日、新聞を読んでいたら、細川元総理が「緑の長城プロジェクト」の広告に載っていました。ふるさと回帰支援センターの顧問の菅原文太さんも先の「いのちの党」の設立総会でもこの運動への共鳴と参加を表明していましたが、大分広がってきた感じを持ちました。当然、漁師の子どもである私も、被災県で検討されている「緑の長城」ならぬ10mをこえるコンクリートの堤防には反対です。人は有史以来、水辺に住んできました。それを1000年に一度ともいわれる今回の津波に懲りて10mを超える堤防を築き、自然に逆らって暮らすなど考えられません。漁師は風を読み、潮のにおいを嗅ぎ、海の色を見て漁を測るのです。是非、福島県民総体での海岸線全体での「緑の長城」建設運動に参加し、自然との共生を軸にした暮らしをしたいものです。 数日前に、久しぶりに福島県にお邪魔しました。県内の自治体職員を対象にした政策研究会での講演を要請されたことによるものです。テーマは「ふくしまのイメージアップにむけて」というものでした。 私はこのテーマに対し、「誇りの持てるふくしまの再構築に向けて」と題して話しました。 それは、県民一人ひとりが誇りの持てるふくしまを創ることがすなわち福島県のイメージアップにつながるのではないかと思ったからです。未曽有の災難ともいうべき福島第一原子力発電所の事故、100%安全と言われて作られた原発。それが事故を起すなどということはまさに寝耳に水のようなもので、その驚きとショックは今も癒えていない。 今後、何十年もかけて、世代を超えてふくしまの復興を勝ち取るためには何よりも心が折れないようにして、あの140年前の戊申の役での敗北から立ち上がった確固不抜の精神に学びながら、もう一度立ち上がり、生きていくしかないと思うからです。 地味な取り組みではありますが、自治体職員のレベルでも風評被害をはじめとした様々な困難に対して克服に向けたこうした取り組みが行われていることに心を強くしました。 今年も田植えに季節となり、薫風が早苗を揺らしています。東北はいまが一番いい季節です。ふらりと旅に出かけませんか?

地域社会を守るためにふるさと回帰運動はある!

どうも今年は天候不順のようだ。5月の連休というのに気温は3月下旬並みとのこと。今日は帰りが遅くなるかもと思い、念のため、コートを羽織ってきたがそれがなんとも重い。季節外れのコートが重いなど意識したことがなかったが、歳によるものだけではない、何かを教えられたような気がした。   5月になって、事務所には新たに高知県と山口県のブースが開設された。3・11以降、中・四国地方が「安全・安心」の観点からふるさと回帰の人気エリアとなっているが、高知は四国では初のブース開設だ。有楽町の事務所がある交通会館の裏、外堀通りに面した銀座一丁目にはアンテナショップが開設されており、2階のレストラン「おきゃく」では安価でカツオのたたきをはじめとした土佐料理も楽しめる。事務所が東銀座から移転して1年、カツオ好きな私はすでに常連となりつつある。 中国地方は岡山県が、突然と思えるような勢いで最近人気となり、今回の山口県のブース開設で中国地方の中心の広島県を除き、すべての県がブースを開設、万全の受け入れ態勢を確立したことになる。山口県はプライベートでも毎年訪れている。訪れる所は周防大島の先の沖家室島だ。そこには学生時代の先輩の墓があり、今年も3月に17回忌ということで友人たちとお邪魔したばかりだ。その島の泊清寺の新山住職はなかなかの人物で親しくさせていただいている。3月には昨年知事に当選した山本知事も顔を出された。   過日、長野県駒ケ根市をお邪魔した。同市の田舎暮らし推進協議会の第2回総会が開催され、その総会で話しを頼まれたからだ。長野市や松本市には何回となくお訪ねしたが、県南地方ははまだ一度も行ったことがなかった。福島ゆかりの保科正之公は高遠城主から会津に行かれた方だ。その桜は有名だが、すでに終わっていて見ることができなかった。変わりと言ってはなんだが光前寺の枝垂桜は満開で、京都・平安神宮の枝垂桜に勝るとも劣らない見事さであった。また市内にはいたるところに水仙が自生し、遠く中央アルプス、南アルプスが望める風光明媚なところであった。この駒ケ根市はふるさと回帰を仕掛けたのは最近だが県内でも屈指の人気エリアとなっている。   過日、担当が有楽町の情報センターにはどのくらいの地方自治体の情報が蓄積されているのかを数えたところなんと800の情報があるとのことであった。過疎化・高齢化に悩む自治体の必死の取り組みが伝わってくるような気がする。TPP交渉も始まろうとする中、何としても地域社会を守るための取り組みに組織をかけて頑張りたいと愚考する。 滴るような新緑の頃、よい連休をお楽しみください。

桜舞う入学式を想う

4月は入学式の季節だ。 山梨県早川町は南アルプスの山麓に位置する町だが、この日本一人口の少ない町の小学校で2年ぶりに入学式があったという。新入生の3名はいずれも首都圏からの移住者の子どもたちだ。早川町は給食費など学校に関わる費用の無償化を打ち出すなど独自の制度で移住者を呼び込む施策を進めている。 さらに、この小学校では山村留学にも積極的で町民有志による応援団も組織され、昨年度は県外から5世帯が移り住んでいる。粘り強い取り組みがやっと成果を上げたといっていいだろう。さらに、町内にある岩殿神社の春の例大祭では6年ぶりに子どもみこしも復活したとのことである。こうしたところにもふるさと回帰運動の成果が表れている。   4月に入って、この間の問い合わせ・来訪の件数も明らかになっている。2月は問い合わせ・来訪数が700件を超え、3月も520件と多かった。2012年度の来場者数も昨年比183%増と急増している。 事務所を東銀座から有楽町駅前に移転したことが大きかったことと、ふるさと回帰運動が社会的に定着したことによるものと思われる。加えて、移住を具体的に検討し始めた方が増えことによるものと言える。 また、各会員自治体からセミナーを開催したいという希望も多くなり、ブースを開設している自治体に限って日曜日の開催を決意した。   【お知らせ】 1月9日のブログで紹介した宮崎県高原(たかはる)町の将来人口1万人を目指した「1万人の笑顔あふれるたかはる復活創造事業」が本年度から始まり、「高原町移住支援金交付事業」の詳細が寄せられた。詳しくは同町の定住推進室(0984-42-2115)へ問い合わせてください。   私の入学式は59年前だ。入学した相馬市中村第二小学校には桜の木が多かったような記憶がある。その桜吹雪の中、真新しい帽子をかぶり入学式に臨んだことを思い出す。忘れていたが昨夜、弟から電話があった。明日10日は母の命日で59回忌だという。母は小学校に入学して一週間で亡くなった。そうしたこともあって、入学式には叔母が参加してくれた。その思い出も遠い。 残念なことがある。ふるさと相馬は福島原発の北に位置する。その原発事故現場で放射能に汚染された水の漏水が止まらないという。政府は終息宣言を発しているが地元ではだれもそうは思っていない。この漏水が海に流れ込むことは必至だ。これでさらに私の愛するあの美しいふるさとの海はさらに汚染が進む。この悲しみと怒りをどこにぶつけたらいいのか。事故からすでに2年、東京電力は危機管理すら出来ない組織に成り下がっているようだ。この企業体質、無責任の度が過ぎる。

夜桜を見に行こう

今年の東京の桜の開花は観測史上2番目の早さであった。理由は冬が寒く、3月に入って急に暖かくなったことによるそうだ。しかし、満開となるや花冷えが続き、なんとか4月に入っても散り急ぐこともなく残っている。 そんなこともあって今日は、学生時代の友人と新宿・花園神社の夜桜に行く予定にしている。かの神社はかつて、1960年代は境内で唐十郎率いる状況劇場が紅テントを張って公演したところで有名だ。親しい友人で大学の先輩でもある現代舞踏の巨匠・麿赤児さんもその重要なメンバーであった。桜も多く、私にとって桜と言えば花園神社というくらいで、かつて細かった木も今や見上げるような大きさとなっている。ここにも歳月の長さを感じさせられる。40年以上にわたって毎夜のごとくゴールデン街に出撃したが、春になれば酔って多くの仲間たちと夜桜を楽しんだもので、今は懐かしい。   今日から4月。 実はふるさと回帰支援センターの事務所は今日からレイアウトを大幅に変更した。これによって、より充実した相談体制が可能な形としていくことができる。直接の理由は、6月から山梨県が複数名の職員を配置してふるさと回帰運動に取り組むことによるものである。その他、3、4自治体がブース開設に向けての調整が入っており、センターはさらに賑やかになっていくものと思われる。 そんなこともあって、今日は朝からスタッフ会議を招集した。そして、マンネリを排し、提案型のふるさと回帰運動をめざそうと訓示した。日々新たに、これこそが現在のふるさと回帰運動のめざすべき方向であると考える。今や、この運動は当初の団塊世代の田舎暮らしのフォローのための運動から質的変遷を遂げ、現在に至っている。それは単なるいなか暮らしではなく、持続可能な暮らしをテーマにした文化運動的側面も加味されてきているといってよいようだ。   一昨年からの2年頑張ってくれた藤本君に代わり、福井県若狭町から池田和哉君(41歳)が出向で派遣されてきた。新しい戦力として期待も高い。是非、声をかけてください。

何から何まで、おかしなことが多すぎる。

東京の桜が咲きました。観測史上最速に並ぶ早さだということです。 今年の冬はことのほか寒く、耐え難かった日もあった。にもかかわらず、観測史上最速の桜の開花とは驚きであった。今日、所要で市ヶ谷に行ったが、3分咲きというところか。彼岸の入りとなったとはいえ、暦はまだ3月中旬。何かおかしいような気がする。過日は気温が25度まで上がり、夏日とか。翌日は20度以上も下がり、冬に逆戻り。今日も今日とて、外は強風が吹きすさんでいる。 東京有楽町の6階のふるさと回帰支援センターの私の後ろのガラス窓はヒューヒューと風が吹き抜けるたびに虎落笛が啼くような始末だ。 なんだか、気象の変動が激しすぎるようだ。   しかし、激しすぎるのは気象の変動だけではない。 ここにきての株価の上昇も半端ではない。かつて、23年前にパンクしたバブルの頃は自治労運動に没頭し、株価や住宅の値上がりにはしょせん縁がないとその動向に目配せをしていなかったが、今回は別だ。こんなことでこんなに株が上がっていいのかと思うほどに上がっている。世の中、こんなものだと言ってしまえばそれだけなのだが、それにしてもこれだけ上がるにはそれなりの根拠がいるはずなのにそれが見当たらない。誰かが「買いだ」といった瞬間から一気に我先に「買い」が「買い」を呼んでいるようだ。また、どこかで暴落し、泣く人が出るのは必定だ。人心も荒廃するだろう。 加えて、TPPも安倍総理は参加を表明した。これまた「みんなで渡れば怖くない式」でいこうとしている。冷静に考えれば、問題は日米間の問題につきる。12か国中6か国とはFTAが成っている。問題は日米間の問題である。過日のワシントンでのトップ会談で合意したなどと自民党は言っているが、オバマ大統領の権限で合意できるような仕組みにはなっていないことは明白だ。ここでもフレームアップが行われている。新聞は事実を書いていない。この間の新聞の主張はあまりにもいい加減だ。この国をどこに連れて行こうとしているのだろうか。TPP参加後の地方の荒廃は目に浮かぶようだ。目先のカネ(円)に、この国の地方やふるさとの山や川、田園風景を託すことはできない。ここは今後の21世紀の日本をどのような国にしていくのかを賭けた論争こそ不可欠であると考えるが、いかがであろうか。   調子に乗りすぎている自民党に21世紀の国の姿まで託すことは難しいのではないだろうか。過日、百田尚樹氏の「永遠のゼロ」を読んだ。突っ込みは浅く、驚くようなことは書いていなかったが、特攻隊のなんたるかを真剣に学んだことがなかった人には一読を進めたい。途中で何回も涙が止まらなくなる場面があった。現在に生きる人々は、先の大戦のことや若くして死んでいった先輩諸兄の無念さに思いをはせることがあってしかるべきではないだろうか。   このことを前提に置くと、この国は何から何までエッと思うようなことが多すぎる。 でも私はこのふるさと回帰運動に賭けていく決意です。 そして、ふるさとを、故郷の山河を守りたいと心底から思っています。

熱い想いが人を動かすのではないか?

毎年、政府予算が固まる段階にあわせて、各自治体の担当者を対象にした研修セミナーを開催してきました。今回は12月に政権が交代し、政府予算が固まるのも遅かったため、例年よりも若干遅れての開催となりましたが、今年も30道府県57団体69名の参加で開催しました。   今年で8回目となるこのセミナーは、都市と農山漁村の交流・移住に取り組む総務省、農水省の担当課長が来て、それぞれの省の政策や予算について説明するなど、他の団体では聞くことのできない中身の濃いものとなりました。   また、記念講演は養老孟司先生(脳学者)に「ふるさと回帰に求められる人物像とは」をテーマにお話しいただきました。先生はその中で、人の命はだれのものかという問題提起を行い、子どもの自殺問題に触れながら、人の命はその人のものではなく、まして子ども自らが命を絶つなどということはあってはならないことだと言い、こうした社会状況の問題を指摘されました。   2日目は明治大学の小田切先生が「ふるさと再生と外部人材」をテーマに問題提起。 ふるさと再生の戦略とその具体化にふれ、ざわめきを作ることの大切さを上げ、そのためにも交流事業の重要性を指摘されました。そして、誇りの持てなくなった地域は消滅していくと語られました。この問題提起は分かりやすかったと参加者からも好評でありました。   先進事例報告は、最近話題の徳島県神山町NPOグリーンバレーの大南理事長が「創造的過疎を目指して」と題して報告。町の将来にとって、必要と思われる「働き手」「起業家」を逆指名するワーク・イン・レジデンスの取り組みや神山町移住交流支援センターでは地域課題の解決に貢献できる人や、起業家・子どものいる若者夫婦を優先して支援するなど、明確なまちづくり方針に基づいて運動していることなどを紹介しました。   こうした内容から、今回のセミナーは参加者アンケートの回答は約90%の参加者が「非常に良い」「よい」と答えるなど、成果のあるものとなりました。こうしたことから言えることは、惰性を廃し、日々新たな気持ちで一つ一つのことに熱い想いを込めて取り組むことこそが共感を呼び、人を動かすのではないかということです。 主催者として、できる限り参加者の問題意識に寄り添う形での運営に心掛けたことがあってこそ実現できたことだと改めて感じました。   16日の熊本県が主催する移住相談会には現在のところ53組94名の参加申し込みがあるなど、初めての相談会としては参加予定者数も多く、西日本への人気の高さを証明するものとなっています。 今こそ、各地の受け入れ態勢の整備とふるさと回帰運動への参加が求められている時期はなかったのではないでしょうか。また、移住希望者を呼び込むためのブース開設も、余地がありますので是非検討いただきたいと思います。

第1回遠雷忌が行われました

前理事長の立松和平君が逝って4年になります。この8日が命日です。   昨年の3回忌の席で、誰が言うともなく、毎年偲ぶ会をやろうということになり、数多ある作品から立松君の出世作である小説「遠雷」にちなんで遠雷忌と命名することに全員一致で決まりました。その時、毎年月命日の2月第1土曜日に、場所は彼のお墓のある下谷の法昌寺(福島泰樹住職)でということになり、先週の土曜日の2日に第一回が行われました。 参加者は約40名。高校、大学時代の仲間を中心に、大学の卒論で立松和平を書いた方や歌舞伎「道元の月」を上演した歌舞伎座の大沼専務、遠く知床からも佐野博さん、番屋の船頭大瀬さんなどゆかりの方々が集まりました。   遠雷忌はまず、福島住職の読経で始まり、焼香の後、福島住職が立松君と1971年に初めて出会った頃のなれ初めから始まる法話。次いで筑波大名誉教授で立松研究の第一人者と言われる黒古一夫氏の「立松文学の今日的意義について」の記念講演が行われました。この中で黒古教授は、立松文学は少しも色あせておらず、もっともっと読まれていい文学であることを強調していました。 その後、直会の席では、歳月の流れは早いというがもう4年になるのかと立松君を偲び、往時を語り合いました。参加者からは先の3・11の東日本大震災や福島第一原発の事故など、立松君が生きていたらどのようなコメントを述べたのだろうか、等というコメントもありました。   友人たちのカンパで建てられた立松君の慰霊碑は知床(斜里町日の出)にあり、毎年6月の第1日曜日に彼が建立した知床・毘沙門堂の前で毘沙門祭(総代・高橋伴明監督)が執り行われており、今年も6月9~10日に開催されます。その頃は原生花園のハマナスも満開で、知床は1年で一番いい時で、毎年行くのを楽しみにしているところです。

岡山の相談会に155人が参加した

昨日は大寒とか、暦の上でも一年で一番寒い時期だ。14日の成人の日は朝から雪、夏のカキ氷のようにどんどん積もった。数年ぶりの大雪とかで転んで怪我した人が1000名を超えたとテレビで報道していた。日曜ごとに観ている朝8時からのサンデーモーニングの女性キャスターも腕を肩から吊るして登場していた。あれから一週間になるが日陰ではまだ雪が残っている。寒さはこれからが本番、ご自愛ください。   さて、一昨日書店で手にした浜田宏一イェール大教授の「アメリカは日本経済の復活を知っている」は興味深い本であった。円高、デフレは日銀の金融政策の失敗によるものと断定している。ほぼ、すべての先進国が金融緩和を行う中で、唯一、わが国のみが逆の政策を行っている事実を明らかにしている。日本の金融関係者の多くは、デフレは一概に悪いものではないと考えていると指摘している。 また、民主党政権の財務大臣など金融関係大臣の人選についても批判している。全くの素人を配置し、その結果、財務省、日銀の跋扈を許したとしている。財務大臣に至っては、この金融危機の中、最近読んだ本は「鬼平犯科帳」と回答している事実を上げ、これでは問題があるとしている。 円高、デフレの現実は、国内産業の空洞化を招き、地方は企業に撤退などで大きなダメージを受けている、内容は多岐に渡り、一般的な読み物としても十分に楽しめる一冊である。 この円高、デフレについて私は、政府が有効な手を打っていないことから、その理由をアメリカが日本に対し影響力を行使し、行わせているものと考えていた。しかし、事実は違っていたことになる。反省しなければならない。   年明けのふるさと回帰支援センターは引き続き、活況を呈している。19日のセンターの来訪者数は記録を更新した。この日は土曜日とあって2回のセミナーが行われた。前段はこの間人気が急上昇している岡山県の相談会とあって11自治体が16のブースを開設し、そこには何と155名の参加者が集まり、セミナーコーナーは人で溢れかえった。 後段も人気の長野県のセミナーで5自治体が参加し、46名が相談に訪れた。前日18日の山形県川西町のセミナーは原田町長自らが参加。これまた10名の来場者があり、盛り上がったセミナーとなっていた。今後も毎週セミナーが予定されている。是非、HPをチェックし、今や国民的な運動になりつつあるふるさと回帰運動に注目していただきたい。

天孫降臨の町を訪ねて

新年あけましておめでとうございます。 ふるさと回帰支援センターは、新年は7日からのスタートでした。正月は久しぶりにゆっくりし、昨年話題になった「海賊と呼ばれた男(上・下巻)」を読みました。出光興産の出光佐三氏の自伝ともいえるような本で、明治人の気骨溢れる奮闘記、経営理念も学ぶべきところもあり、面白く読ませていただきました。 年末には、宮崎県高原(たかはる)町に呼ばれ、ふるさと回帰運動の現状、これから取り組むための必要なこと、いまなぜふるさと回帰なのかなどについて話をさせていただきました。全国的には遅きに失した感はありますが、3・11以降のふるさと回帰運動の設立以降のかつてない盛り上がり、とりわけ瀬戸内・九州が人気という背景もあり、成果が期待できそうです。町は、人口減に歯止めをという町長の固い決意のもと、町を上げて取り組む決意をし、すでに役場を横断したプロジェクトも立ち上がっています。高原町は霧島連山のふもとに位置する風光明媚な町で、天孫降臨の神話のふるさとで知られています。移住者アンケートの立地条件の第一には「自然環境のいいこと」が挙げられており、その条件にぴったりというところです。   政権交代した安倍自民党は、喜びを隠しきれないような雰囲気を漂わせながらスタートしています。7日の連合の賀詞交換会では、かつての60年安保闘争で退陣した岸内閣を引き継いだ池田内閣を彷彿させるような経済政策、とりわけ給与所得の引き上げを語っていました。一方、民主党はあいさつの場すら無いような有様で、悲哀を囲うような状況でありました。安倍総理は、20年にも及ぶこの国を覆う閉塞感を一掃しようとの想いなのでしょうが、危うさが否めません。ただ市場の反応は早く、株は急速な勢いで上がっています。今夏の参議院選挙まで、政治も株価も目が離せないようです。   ふるさと回帰運動は、引き続き丁寧な対応でこの盛り上がりを引き継いでいく決意です。 本年もよろしくお願いいたします。

何だか嫌なムードになってきたようですね

総選挙は自民・公明の圧勝となりました。3年前は民主党の圧勝、さらにその前は自民党の圧勝。やはり選挙制度に問題があるのではないでしょうか。 それにしても3・11の影響による福島原発事故という歴史的な事故後の総選挙にもかかわらず、原発推進の党が政権の座に就くとは一体どうしたことでしょうか。すでに、原発事故は風化してしまったのでしょうか。あるいは毎週金曜日に官邸前に集まって脱原発の声を上げている人々の動きが敬遠され始めているのでしょうか。脱原発もパフォーマンスの域を出ず、誰も真剣に脱原発など思ってはいないのでしょうか。 これによって消費税の増税も計画通り進められるでしょうし、自主憲法も前回の安倍内閣時に教育基本法が強行されたように、一気に強行されるのではないでしょうか。   誰かが言っていたが、今回の総選挙が将来あの時の総選挙が分岐点だったといわれかねない選挙になる可能性が否定できない結果となってしまった。 国の帰すうを決定しかねない重要な政策課題が山積みの中での総選挙にもかかわらず、政策論争は全くなく、できもしない美辞麗句の羅列で議員が選ばれていくこの現実を、何とむなしいことか、とため息が出てくる。 国政に比べ、東京都知事選は友人の猪瀬候補が石原前知事に勝るとも劣らない得票で当選した。国会議員の当選者の訳のわからないコメントに比べ、彼のコメントは具体的でわかりやすい。5年にわたる副知事の経験が十分に生かされているものだった。政治は「口より実行」を絵に描いたよう人物で、今後に期待できる。同じ団塊世代でも、この国家の過渡期に引退する人があると思えば、新たにデビューする人もいる。 この選挙結果は、何かを団塊世代に問うているような気がしてならない。老いてはいられないぞと思った次第である。

「いのちの党」船出シンポに出席しました | 日常 VIEW MORE

「いのちの党」船出シンポに出席しました

ふるさと回帰支援センター発足以来、顧問に就任していただいている菅原文太さん(俳優)が呼び掛けた標記「いのちの党」のシンポジュムが12月5日、目白のフォーシーズンズ・ホテルで開催された。   このシンポには菅原さんの多彩な交友関係から約100名の多彩な方々が参加、「現在と未来の選挙民と立法府、行政府に提言するための、志を持つ個人の穏やかな集まり」と位置付けられた党(集まり)。現在、山梨県北杜市で農業法人を立ち上げ、農業に取り組んでいる菅原さんらしく、この党の志には「消費を楽しむ三次産業の社会から、生産を楽しむ一次、二次産業の社会への転換をめざし、そのために生産基盤となる地方に眼差しを注ぎ、かけがえのない価値を持つ農山村を再生し、活力をつける政策を提言する」と謳っている。   開会あいさつは福島県双葉町の井戸川克隆町長、脳学者の茂木健一郎、京都大の田中克名誉教授が行い、基調講演は「いのちの森の防潮堤」構想を提案し、今回の東日本大震災をうけて、青森から福島までの海岸線に南北300キロの「森の長城」建設を呼び掛けている横浜国大の宮脇昭名誉教授が行った。   この中では、それぞれユニークな発言が続き、大いに盛り上がったが、私には井戸川町長のあいさつが胸を打った。町長は、7000人双葉町民を代表し、帰るに帰れない双葉町の現状を訴えた。すでに、昨年の3・11から1年9か月、全国各地に散らばってしまった町民に思いをはせ、埼玉県加須市に仮の役場を置き、自らもそこに暮らしながら頑張ってきている。こうした現状において、国になり、県は全く今後の展望も明らかにせず、国策として造られた原発の事故についても謝罪もなく、某大臣は来て、支援しますというが、そもそも絶対安全と言って建設したものが事故を起こした以上、責任を持って、原状回復すべきものなのに現在まで放置している。町民がまとまって暮らす場所の確保を要請しても、県は一切回答せず、黙りこくるばかりと訴えた。立場を置き換え考えてみればわかるが、町長の立場としてやりきれない想いを抱えたままの1年9か月。この国の無責任さには語る言葉もない。巷では、相変わらず出来もしない、いいことばかりをちりばめた言葉による選挙運動が行われているが、どこにも被災者を想いやる言葉はない。この現実を放置した脱原発はない。いつからこの国はこんなにもいい加減な国になっていったのかと嘆かわしく思う。  

残念な鳩山元総理の引退

鳩山元総理とは同じ世代である。そんなこともあって、これまで一貫して注目してきた。しかし、いつまでたっても硬さが残る政治家であった。もう少し柔軟であってもよかったかも知れない。かつて、高知に選挙で入っていた時に民主党代表として応援に来たことがあった。帯屋町の中央公園で演説会があった。鳩山代表は、いきなり西郷南洲遺訓の一説を語り始めた。有名な「地位もいらない、名誉もいらない」というくだりだ。南国の日差しの中に立つ彼がまぶしく見えた。あれはいつのことか。   その後、政権交代があり、彼は総理になった。その頃から彼が遠くなった。気負いもあったのかもしれないが、言っていることが解かりにくくなった。結局、沖縄問題でやめざるを得なくなったのだが、言っていることは正論であった。ただ外交問題がらみの安全保障問題は相手のある話しであり、総理が言っても、成るものと成らないものがある。それは経緯があり、相手国の世界戦略もある。段階を踏んでしか、成らないことも明らかだ。本質的には国の存亡に関わる以上、簡単には行かない。これからの国のめざすべき方向をしっかりと提示し、国民的議論を背景に解決しなければならない。それを急ぎすぎた。   今回の引退は、彼らしいといえばそれまでであるが、国民には分かりにくい。庇を貸して母屋を取られたようなものだ。消費増税提案以降の民主党は、鳩山民主党とは明確に異なる。言っていることが言い訳がましく理解しにくい。今回の引退も、もう少し議論があってもよかったと考える。本人は引退すればいいが、彼を含んだ民主党を支持してきた支持者はどうなるのか。彼なり、菅氏なり、小沢氏なりがいての民主党だったはずなのだが、そういった人たちの影が薄く、すでに出た人もいる。時代の転換点なのだから、もっと丁寧な議論こそが求められたはずだ。このままでは政治家としても、総理経験者としても失格と言わざるを得ない。   総選挙も目の前だが、3・11という歴史に残る震災の後、しかも福島原発という、従来からの価値観が足元からひっくりかえるような大問題が発生し、復興への道筋も見えない中で、10を超える政党が乱立し、結局争点がぼやけている。鳩山氏の引退は氷山の一角かも知れないが、はたして底には何が隠れているのか。目を凝らして、注視が必要と考える。そして、なによりも投票は行かなければならない。

ふるさと回帰支援センターが設立10周年に | ふるさと回帰支援センター VIEW MORE

ふるさと回帰支援センターが設立10周年に

11月13日、東京交通会館でふるさと回帰支援センターの設立10年のお祝い会を開催した。一口に10周年と言っても山あり、谷ありで大変であった。しかし、過ぎてしまえばそれらもみんな懐かしいことのような気がする。当日はJA全中の萬歳会長をはじめ、構成団体からの理事各位や会員自治体関係者など150名の方々が出席され、大いに盛り上がった。萬歳会長は「JA全中としても、この運動を引き続き、しっかり支えていきたい」と決意を語った。   このお祝い会は2部構成で、1部は顧問の菅原文太氏の記念講演。この中で菅原さんは率直に「10年になるか、よく頑張った」と感想を話され、また最近マスコミを賑わせている「いのちの党」にも触れ、人が粗末に扱われているいまの社会を抜本的に壊さなければならない、と語った。   その後、遠野山里ネットからの差し入れ、遠野産のホップで作られているビールで乾杯、10年間の歴史を振り返った。ここ数年のふるさと回帰運動の盛り上がりもあって、会場では、様々なグループが思い思いの感想を述べ合い、用意したビールはすべて売り切れた。また、参加者には記念のマグカップと10年史が配られた。   この間、取り組んできた内閣府の復興支援型地域社会創造事業のインキュベーション事業が、10日の福島市で開催した18回目のビジネスコンペでの9名の認定者で予定された90名の起業家の認定を終了した。応募者総数は231名、合格率39%であった。後半の応募者は被災3県を中心に各地で開催されたインターンシップ事業の180時間の研修を終えた方々が応募されたこともあって、合格率が高かった。1000年に一度とも言われた東日本大震災からの復興は、日が暮れて途遠しの感もあるが、起業家の事業が成功するよう引き続きしっかりとしたフォロー体制を組み、応援する決意である。    

南三陸町で考えたこと

東日本大震災から1年7カ月、初めて宮城県南三陸町を訪ねた。内閣府の復興支援型地域社会雇用創造事業の12回目のビジネスコンペを、南三陸町まちづくり推進機構の事務所で開催したことによるものだ。この事務所は、徳島産の杉材をふんだんに使用して建てられた。すべてが無垢材で作られたもので、近づいただけで杉の匂いに包まれるような感覚だった。   ビジネスコンペでは、書類審査を通過した6名のプレゼンテーションが行われ、早稲田大学の堀口健治教授を審査委員長に5名の審査委員による厳正な審査により、復興に熱い想いを懸けたふるさと起業家が5名誕生した。今回は、事前に180時間に及ぶインターンシップを実施し、その延長線上にビジネスコンペが位置付けられたことにより、認定者が多かった。これまでの平均認定率が26%に留まっていたことから考えると驚くような結果だった。   その南三陸町だが、津波の被害は目を覆うものがあった。高さ5メートルを超えるような堤防は、津波によって簡単に突破されたようであった。その結果、町全体が津波にのまれた形になった。町の防災センターに最後まで残り、町民に対し必死に避難を呼び掛けた女子職員がいたことで有名になった建物は、鉄骨だけが残り、いまでもぽつんと立っていた。その姿は彼女の姿に連なり、涙を誘った。そして、彼女の冥福を祈らずにはいられなかった。   南三陸町の現在は、瓦礫こそ片づけられているが復興にはまだまだ遠く、どこから手をつけたらいいのかもわからない状況であった。こうした中で、復興の一助になればと、今回のビジネスコンペにエントリーし、起業を目指す方々の健闘にはただただ頭が下がるばかりだ。なんとか成功してほしいと願うばかりである。

今年の夏から秋をふり返る

数日前の土曜日の夕方、空は一面の鰯雲であった。火のように薄赤く染まった一面の空は、あたかもふるさとまで続くのかと思われるような広がりであった。家路を急ぎながらも幾度も幾度も振り仰ぎ、見入ってしまった。 今年の夏はことのほか暑かった。8月下旬の自治労大会で訪れた函館は、この時期こんなに暑いなんて言うことは近年なかったことだと地元の人は口をそろえていた。 9月はふるさと回帰フェア2012で1カ月が駆け足で去ってしった。10月も現在取り組んでいる復興支援型地域雇用創出事業に追われ、半ばだ。そんな日々の中で振り仰げば夕焼けに染まった鰯雲、もう秋なんだと思った次第である。 自治労大会は、雇用延長の恩恵に浴し、ちょうど35年務めた自治労の最後の大会であった。かつての雑然とした中にも、熱気があふれ、独特の雰囲気があったがそれも消え、ずーっとスマートに大会になった。時代は流れた、老活動家の出る幕ではないのだと思った次第だ。最後の大会が函館というのも何かの縁、60年安保闘争の全学連委員長の唐牛健太郎氏の眠る地、彼の想いを引き継ぐなどという大袈裟なことではないが、一生の仕事に労働運動を選んだことを墓前に報告できたことはよかった。 復興支援型地域社会創造事業のビジネスコンペで10月初旬に約30年ぶりに遠野市を訪れた。30年前はまだ30歳代と若く、無茶なことをやったり、言ったりもして関係者には大いに迷惑をかけたかもしれないが、それも今で懐かしい思い出となっている。遠野は駅前もすっかりきれいになり、東北を代表するような地方都市に生まれ変わっていた。昨年の3・11大震災では岩手県沿岸部の後方支援の出撃地として大いに有効性の高い支援を行っていると話題になったが、その支援活動を担った遠野山里ネットと組んでこの支援事業に取り組んでいるが古くからの中継基地だった、その役割は何百年たっても変わっていないことが証明され、先人たちの目の確かさを改めて教えられた気がした。

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